屋上の天使、三階に住む三島由紀夫

三島由紀夫作「橋づくし」。知らない、と思う。実際知らなくていい。
三島由紀夫は山ほどろくでもない短編を書き残し、そのうちいくつか(「憂国」や「翼」)、私やあなたがマトリョーシカのように互いを飲み込みパワーアップしても、(三島はきっとこんな文章を書かなかっただろう)書けない素晴らしい短編を残した。

橋づくしは、(残念極まることに)前者だ。
あらすじはウィキペディアを見てくれ。この記事より明らかにタイムパフォーマンスがいい。そのまま帰って来なくてもいい。

結末から言うと、芸者たち三人は誰も願いが叶わない。代わりに醜い、小憎ったらしい女中が願いを叶えてしまう。三島のできの悪い短編でよく見る、「皮肉なオチ」だ。菊池寛でもよく見る。
もう誰も興味がないと思うがもう少しうんちくをぶちまける。大江健三郎と古井由吉の対談、「文学の淵を渡る」で、三島由紀夫はボコボコにやられている。(扱われた内容は「百万円煎餅」だが、「橋づくし」に通じるのでこのまま続ける)
どうボコボコにされているかというと、
「三島由紀夫は通俗性を描けなかった」
という批判である。これには当方も同意する。
「橋づくし」は安い小説で、ただ三島のあのガラス越しの文章の距離感で、わずかに読めるシロモノなのだが、そう、三島由紀夫は人の「生」を、「生活」を、引いては「通俗」を、ついに肯定し得ない作家だった。
「豊饒の海」の夭折者たち(とりわけ「春の雪」と「奔馬」)、「金閣寺」の鶴川、「仮面の告白」の与太者たち。「憂国」の死にゆく夫婦。彼の小説はいつもいつでも、死にゆく者の持つ、壊れやすい美しさに捧げられている。
だから、私は三島由紀夫の「橋づくし」やら「百万円煎餅」やら「商い人」やら、橋にも棒にも(「橋づくし」とかけている)かからない出来損ないの小説を読んでしまう。戦後、人の「生」が高らかに、市民的な幸福と共に祝福される時代に、「死」とはただの、「生」の終わりでしかない。そのような、死に見放された時代の中、彼は一体愚かな芸者以上の何を書けただろう。

三島由紀夫の小説は、童話的だとよく指摘される。現実性のなさ、明快な落ちなどがその理由だ。そのせいだか、私は彼の小説を読むたび、一人の子供がもう電車のこない線路をとぼとぼと歩いているような感覚に囚われる。

あのクサいタイトルの回収をしよう。三島はアパートの三階に住んでいた。西洋風のものを思い浮かべてほしい、日本式だと潰れそうだものね。
三島はそこから、屋上に舞い降りる天使を見ていた。しかし、彼は屋上には入れなかった。鍵を持っていなかったから。そして下の階の人々は、天使にかまっている暇などなかった。彼らは日々の生活をしなければいけない。何が天使だろう。
生活と天使の間で、彼は窓の向こうを飛び交う、天使の羽を捕まえようと、手を伸ばし続けた。

もう誰も読まんな、これ。俺も読まない。しかし、べらべら喋れて楽しかった。
今は三島の「椿説弓張月」を読んでいる。それほど良い作品ではなさそうだ。読んでくれてありがとう。私の自己顕示欲の尊い犠牲へ。筆者より。


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