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萩尾望都「山へ行く」

萩尾望都晩年の作品。漫画の試し読みをリンクで貼っておく。途中までだが、よければ。

「山へ行く」
「そうだ 今日は山へ行こう」―そんな主人公のモノローグから始まる。彼は中年の作家、生方(うぶかた)。山へ行く理由は、「風の音を聞き山の空気を吸って」「山の光を感じ」「山の一部となる」こと。

しかし、彼は「ハラはへるだろうな…」と思い、駅前でおにぎりとチョコボールを買うために足を止める。そこで、五十嵐という編集者が現れ生方に(無遠慮に)校正用原稿を手渡し去ってしまう。

生方は、その原稿が「校正しろ!!」「校正しろ!!」と叫んでいる気がする。生方は古紙置き場(だろう)に原稿を捨てるが、老人に見咎められ慌てて回収する。生方は、「山が薄れていく……」とぼやくも、なお「行くんだ…山の静寂……山のにおい…」と、山へ行くことをあきらめない。

しかし道を行く生方に、「バババババ」―騒音とともにオートバイに乗った笑顔の男が「アレ入荷しましたよ!!」と声をかける。生方は一度はやり過ごそうとするも、結局「アレ」とはなにか気になり男を呼び止めてしまう。彼はカド屋電気の店員だった。生方の家の、年末雷で壊れたパソコンの分配器の入荷を伝えに来たのだった。

次に、生方の電話が鳴る。(おそらく)生方の妻からで、息子のサトルが学校に行っていないのだ。妻は少し怒っているようで、生方に
「のんびり山なんか行ってないで!!」
と文句を言う。
生方は手袋もなくし、早くもおにぎりを食い、嫌だったはずの原稿に目を通しだす。あくびもする、眠気が来たようだ。生方は山へ行くのをためらい始める。

それから生方はまた呼び止められる。結局山には行けない。最後は家族にあれこれ話しかけられる生方が、「山の空気を吸って 山にとけて すっかり人間を忘れるひとときを― ―次はきっと手に入れよう」と考えて話は終わる。

筆者の好きな作品だ。作中の「山」が何を意味するのか。私は漱石「草枕」の「非人情」の境地なんか思い出す。

(おまけ)つまらない話かもしれないが、
ちょっと付き合ってほしい。
ハイデガーという哲学者を知っているだろうか。彼は反ユダヤ主義者で、その点私は全く受け付けない。ただ、彼も一ついいことを言っている。
著書「存在と時間」の、日常性の分析より。彼いわく、日常性とは世界に存在する他者と事物に対する私(たち)の「配慮」(顧慮)的な関係性なのだという。

なんのこっちゃ、と思う。が、たとえば「部屋の隅のホコリを掃除しなくちゃ」と思う時、ハイデガーにとって私たちは「部屋」に「配慮」をしている状態、つまり、意識を向け「気を配っている」状態にあるのだ。

たとえば自分の体への配慮。「お腹痛いから、トイレ行こう」。
たとえば友達への配慮。「そういや最近あのカフェの話よくしてるな、よし、週末一緒に行こう」。
 私たちは日常を絶え間なく続く、机や、猫や、テレビや他人や自分自身への無数の「配慮」で埋めている。

埋めていると書いたが、これは決して悪いことではない。気遣い、気遣われる他者や世界との関係のなかでなければ、人は生きていけないものだから。

言ってしまえばこの物語はそうした「日常」の「気遣い、気遣われる関係性」に対する「非日常」を目指す生方の存在と、それが失敗に終わるまでを語る物語ではないか、と私は思った。人間は関係性のなかでしか生きていけないのに、必ずその外を求めてしまう。そういう生きものなのかもしれない。

なお、ハイデガーはそこから抜け出し、実存存在たれ、とのたまった。だが、そんなさびしい実存より、私は関係性のなかにいたいと思う。




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