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「片目から涙を流しているような文章」
というのがある。

片目から涙を流すといってすぐに思い浮かぶのは、『ドライブ・マイ・カー』で西島秀俊が緑内障の点眼薬を垂らし、片目だけで泣いているようだったことだろう。

あるいは、村上春樹の小説での泣き方はすべて、片目から涙を流しているように思える。
両目から流す涙は、いかにも同情をひくし、技巧的に見える。ので、あえて片目から流す、人には見えない方向でのみ。
それは両目で泣くよりも、実はもっと技巧的で、鼻につくこともある。

そのような文章が、好きだし、嫌いなときもある。

我々の時代には、片目から涙を流しているような文章が、増えていくに違いない。

雨が降ると思って、傘を持って行った。雨は降らなくて、その傘を忘れた。
持って出た傘を持ち帰ってくるのはなんと困難なことだろうか、と福尾匠がTwitterで言っていたのを、昨日見た。
帰りに駅の中の小さいくまざわ書店で、群像の7月号を買った。
福尾匠の連載が載っている。
そのほかにも気になるもの、知らなかったけれど気になったものが多くて、集中せずパラパラ拾い読みしては、色々考えが飛び、落ち着かず、YoutubeやTwitterも見て、また群像に戻って、をしていた。
福尾匠の文章は、片目から涙を流しているように見えた。
例えば、置き配についての記述。

…仮にも食べ物の配達を「ドロップ」と呼ぶのは、ちょっとんまりなのではないか。

そして、東浩紀に関する記述。

…東が求めているのはふまじめな読者がいつのまにか誤配によってまじめになることであり、いつまで経っても東を動画上の喋りのおもしろいおじさんキャラとしてしか消費しないような一貫してふまじめな、あるいはいつまで経っても彼に第二の『存在論的、郵便的』を書くことを期待するような一貫してまじめな読者に囲まれるたびごとに断筆を語り、そのようにして彼は新たな誤配可能性の場に飛び移る。
 むしろ驚愕すべきなのはその胆力であるかのようにすら思えてくる。とてもじゃないが僕は同じようなことはできないし、その心理的な負担は想像するにあまりあるが、このままではあまりに出口のない話になってしまう。どうしたものか。

少ない例だが、「片目で涙を流しているような文章」と言って、僕が言いたいことはわかってもらえるだろうか。
思うに、日記はいつも、片目で涙を流している。

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