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なんであれ、一生かかっても解くことができない謎かけが、この世にいくつか存在するということは、息が休まるような一つの事実であると思う。
僕は退屈が何よりも怖く、だけど、暇であることは好きなので、そういう謎かけが多く用意されているということは、とても喜ばしい。

僕にとって、長編小説を読むことは、そういう、一生かかっても解くことができない、パズルのような慰みものである。

川上未映子の最新長編『黄色い家』を読み終わって、中期大江の重要作『同時代ゲーム』に取り掛かった。
それらを読んでいるときと、読んでいないとき、どちらの時間でも、長編小説を読むという経験は、どういうことなのか、考えている。

長編全体を掴むのは、中短編を掴むのに比べ、初読でも再読でも困難だ。単純に、覚えておけるはずがない。覚えている人もいるのだろうが、これは僕の話なので関係がない。なんとか全体を掴もうと、その作品だけに集中すればいいのかとも思うが、厄介なことに、その作品以外のものを読み続けないと、その作品を読んだことにならない、というのもまた事実であるようだ。
そのため、その作品にかかりきりになる時間は、人生でも限られている。
全体を掴めないのに、僕は、何を読んでいるのだろうか。

一つには、長編を読むという経験の中に、長編が存在するということができそうだ。
それは前の、保坂和志と大江健三郎について書いた日記でも述べたことだが、長編の場合は特にそのことを思う。
優れた長編小説には、読者の読むという遍歴そのものが組み込まれている。
『黄色い家』は犯罪小説としても年代記としても読めるが、そんなことよりもまず、記憶と現在について考える経験になる。それは覚えておくことができない。
「黄色い家」とあるように、色がモチーフとなり、黄色を主軸に青が繰り返し登場する。そのモチーフの出現の契機を、いちいち覚えておくことはできない。ページを参照すればもちろん、場所はわかるし、その意味的な配置がどうなのかも再読すればわかる。しかし、その色がどのような連なりのもとで出てくるのか、それは読むという一過性の動きの中でしか分からない。常に初読の状態なのであり、読み通す時には、忘れられている。
そして『黄色い家』の最後、いままでの全ての色が混ざった「光」の中で小説が締め括られるが、そのときに思い返される全ての色は、かつて読んだものとは絶対に異なるのだ。

今朝は洗われたような天気で、至るところにアジサイが咲いた。

来月、横浜で実習になるので、実習先に自転車で行けるか試しておきたくて、視察に行くことにした。
その病院は、鶴見川を越えたところにあって、鶴見川の手前と奥には、温浴施設がある。
奥の方は「ゆ」という看板が出ていて年季が入っている。
手前の方は英語の看板が出ていて、ラウンドワンくらいデカい。

奥の方、病院側にある温浴施設に入る。
熱波士やセラピストの全身写真が階段に建てられて、それぞれ異名を付けられている。金目鯛の定食が一押しのようで「金目鯛」という筆文字で埋め尽くされた紙が貼られている。フロントは3階で、1、2階が駐車場になっている。
中に入ると、サウナが2つ、打たせ湯が2つあり、バスジェットが寝湯と坐湯で用意されている。日替わりの入浴剤で人肌の湯があり、千葉実母散という薬湯がある。由来が書かれていて、源頼朝の四天王の千葉家の末代が、実母のために作った薬を入浴剤にして江戸時代から使っていたのだという。

露天の方に出ると、天井はかなり開けていて、鶴見川の上に広がる空だけが見えた。炭酸泉と、普通の湯があって、もろに日差しが降り注いでいる。10個くらいある空気浴の寝椅子は満員で、褐色の中高年がいつまでも横たわっている。

湯から出て、金目鯛の洗いと、グラスビールを食券で買って注文する。
金目鯛の洗いは、アラをただ湯がいたようなもので、皮がデロデロに縮まっている。チューブに入れられたごま油を、塩を振った小皿に注入し、もう一つ空の小皿に機械が練ったワサビを入れ、そこに自分で醤油を注ぐ。
座敷席に自分で座布団を持ってきて、鶴見川の河川敷と、病院を臨む席に座る。グラスビールは香るエールだが、泡は貧弱。洗いは臭くて、ごま油を浸してから食べないと食えたものではなかった。

第二京浜は自転車が通る想定がないのか、車ばかり走っていて、危ない。
はま寿司と巨大なパチンコ、ドンキホーテ、3階建てのブックオフがある。
鶴見川、多摩川を越えて、環八に出たあたりで、「自転車で行くのはやめよう」と思った。






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