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匂やかに晴れた。
実習を終えて、書類を提出しようと思ったが、ボールペンを失くして、何度目か分からないが、大学の丸善で買った。
丸善の店員さんが「安孫子くんの日記、毎回、あいだ時間に読んでるよ」と言ってくれ、アイスをくれた。「日記のお礼ということで」
僕の日記を毎日、か、定期的に、読んでいると言ってくれた人は、これまでにも何人かいて、さらに言えば両親もこれを読んでいる。
なぜ、あなたたちは読むのか。

昼には、糀谷の朋友という中華屋に行く。
1967年創業というその店の外観は青く塗装されていて、「03」がつく前の電話番号が看板に書いてある。建物全体が若干、傾いているように見える。この辺りに越してきたときに、この店の前を通りがかって、その時は休業日だったので、てっきりだいぶ昔に閉店した店だと思っていた。
この店は、去年マツコの知らないチャーハンの世界で紹介されてから店の外にも客が並ぶようになって、椅子を出すようになった。僕の前に並んでいた2人連れの客は常連のようで、「インスタかなんかで紹介されてからこんな混むようになったらしいよ」と言っていた。その2人はテーブル席に座って、ビール瓶を頼んでいた。「アサヒでいいんでしたっけ?」と店の人に言われていたので、他の銘柄もあるのかもしれない。チャーシューは1100円で美味そうだった。慣れてきたら本格的に飲むのもいいかもしれないが、こんなに混むならゆっくりできなそうだ。そう思うと悲しい。
僕はとりあえずカウンターに座って、その、マツコが知らなかった五目炒飯を頼む。
この店は、僕が好きな玉袋筋太郎がやっている「街中華で飲ろうぜ」でも紹介されている。耐熱ガラスの向こうでオヤジさんが中華鍋を振るっている。鍋をふるっておたまの方に炒飯を乗せ、それを茶碗に入れると丸々と収まる。上に別ぞえの卵のふわふわが乗る。グリンピースが美味くて、ほくほくした芋のようだ。小さく刻まれたチャーシューの味ムラも素晴らしい。

家に帰ってから洗濯をして、図書館に行こうと思っていたのが、長く昼寝してしまい、途中洗濯機が止まる音がしたが、窓から風が吹いて動けない。そのまま寝続けると長い夢を見た。
『叫び声』の本番をやる夢で、今度はプールに水を張って、その中で上演を行なっている。観客は、飲み物を持ちながら、プールサイドに腰掛け、足をプールに投げ出してみている。
奥山がセリフを飛ばして、アドリブを始めるが、そのアドリブがひどくて見ていられない。上演を中断して、再度始めるため、準備をするのだけれど、夢の中での作業は往々にしてそうであるように、うまく進まない。粘液質の壁の中を進むように全てがノロノロとして上手く事が運ばず、スタッフを招集すると、また別のスタッフがどこかへ行ってしまっていて、それを呼んでいると今度は別のスタッフがいなくなり、奥山もどこかへ行ってしまう。やっと集まったかと思うと今度は観客が帰っていく。ペットボトルのmatchを泌尿器に見立て、お漏らしをするシーンは夢の中でも採用されていて、それをやろうとするのだが、プールの中だと上手くいかないので、観客の1人、僕の高校演劇部の同期にやってもらうことになる。「このmatchのペッドボトルを振って、蓋を開けて溢れさせて、飲んでほしい」「キッショ。オッケー分かった」「その後で奥山が入れ替わって、『パパー、ママー』の台詞から再開ね」結局、再開されることはなかった。目が覚めるともう16:00で、洗濯物を干さないといけない。

なんだかんだ17:00になったが、陽はまだ高いので、図書館へ向かうことにする。
半袖のTシャツを肌に直接着て自転車に乗ると、少し肌寒い。
途中の公園で、中学生の男子らが5人ほど遊んでいて、僕の自転車と並行して、競争を始めた。ベンチの間を通り抜け、滑り台の降り口を登っていき、雲梯にぶら下がって、ジャンプして着地する、という競技のようだった。
それを僕は、カメラがパンしていくように、自転車で並行して走りながら見ていた。奥の方の中学生は遊具に隠れて見えなくなったり、現れたりする。
そのバラバラで散文的な様子は、黒沢清の映画の、長回しのワンカットのようで、中学生男子のちょっとしたパルクールは素晴らしいバネの身体だった・

図書館に着き、今月の文芸誌を読む。
群像の保坂和志の『銀の胡蝶は夢の記憶に歳月に彫るか』という連載小説を読む。今月は大江健三郎論を読んだ保坂和志が大江健三郎を読むと言う体験を思い出すという日々について書いた回だった。大江健三郎は、小説が、文章が、何よりもまずマテリアルで、文字の塊であるという単純な事実を見落とさずに、その関係を書き続けた作家だった。保坂和志は「小説はそれを読んでいる時間の中にしか存在しない」と言っていて、それと同じようなことを大江健三郎も言っている。
小説を読むと、小説を読むことが上手くなるが、それ以上のことはないと僕はおもう。そしてそれで良いのだ。そしてそれだけが難しいのだ。
小説を読んで、何か命題のようなものを勉強するわけではない。何か覚えておけることに意味があるわけではない。それを読んでいる現在時間は、覚えておけるわけがなく、その時にしかない。その軌跡自体が、小説ということで、そこは保坂和志と同意見だ。
文章の意味内容自体に僕は興味がなく、その構造に興味があると僕は前に日記で書いたような気がするが、構造も結局は言葉で表せるので、それもまた違うと今日は思った。構造は構造でも、それは読んでいく力学にあるもので、大江健三郎が言う「文体」の方に近いのかもしれない。
この日記も、他人の日記も、その内容はどうでもよくて、それがあることに強い感動を覚えるのだけれど、それもこの話に関係するのかもしれず、あなた方もそういう感動でこの日記を読んでいるのかもしれないが、僕は読者の話をしすぎたか?


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