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苦役の日。
雨が降っていた。

行く時の電車は良かった。
雨も弱かった。
京急蒲田駅から、品川駅は、京急線の快特で、一駅、たった7分で着く。
たまに、新幹線のように座席が前向きの、進行方向と平行になっている車両が来る。
今日もそれだった。
それに座れたとき、特に隣に誰も座っていないときは、いつも、幸福を感じる。
7分間、一駅なので誰かがもう、座ってくることはない。
スマホも本も、景色さえも特に見ないで、前の座席を見つめたまま、ただ、7分間を過ごす。
純粋時間が、流れている。

昨日の夜、電話で彼女が、自分の家の周りのコンビニの位置関係について教えてくれた。
僕は「こういう話を聞いている時がいちばん幸せだ」と言った。
退屈な情報。

日曜の朝であるから、ほとんどどの窓にも人が出ていた。腕まくりをして窓にもたれ、タバコをふかしている男があり、小さな子供を窓側へ連れてあやしている男もある。ある窓は寝具でいっぱいになり、寝具の上から女のもじゃもじゃの頭がときどき見えた。街路を隔てて人々は大声で話し合い、ちょうどKの頭の上で、それがけたたましい笑い声になった。長い街路には、路面から二、三段階段を降りたところに、一定の間隔をおいて、さまざまの日用品を売る店があり、女たちがそこへ出入し、階段の中ほどでしゃべっているのもいた。

フランツ・カフカ『審判』 本野亭一訳

これを書く、カフカの喜びよ。
たまたま住んだこの街には、このようなコンビニの配列があり、
僕はたまたま京急線を利用する日々を持つことになり、
都心に出るには、いつもこの7分間を、待つ必要があり、
いつもこの、純粋7分に、なににも代え難い幸福を感じる。
このように退屈な時間が人生にはいくつもあることに、恩寵さえ、感じる。

山手線は品川から新宿方面は比較的空いている。立ったり座ったりして本を読む。渋谷駅で降りる。渋谷駅の山手線ホームは、1月に改装されて、島式のホームになっており、両周りの山手線から降りた人が合流し、一つの階段を降りていくことになっている。
渋谷駅についたのが、予定の1時間前。渋谷から30分ほど歩いた池尻大橋に大学病院がある。松濤の坂を昇っていき、玉川通りを歩いていくのが、間違えにくい。玉川通りは首都高と幹線道路で車と騒音が五月蝿く、大通りを避けて散歩していくことにしたが、住宅街の方は道の途絶が多く、迂回をしているうちに方向が分からなくなり、結局玉川通りに戻った。雨が強く、途中でLチキとLチキバンズを買って、挟んで食べた。
予定ギリギリの時間に大学病院の臨床研究棟に着く。待ち合わせ場所がわからないので、階段を上がってフロアマップを一つずつ確認する、埒が明かないので、メールを確認する。すると1階の待合室でアポイントが取られていたことに気づき、1階に戻る。先生が何人かで談笑している。どの先生が、待ち合わせしていた先生か、一瞬わからなかったが、白衣に名前が書いてあったので、覗き込んでから、自己紹介をする。会った事は何回かあるが、向こうも僕とは、すぐには認識できていなかったようだった。
「入れ違いになってたんだね。よく入ってこれたね」
入口のカードリーダーが学生証も読み込むことを、この先生は知らない。

待合室で話をする。論文の打ち合わせを行う。
僕はこの論文の執筆に乗り気ではない。だから今日は、やる気のなさを見せつけるため、わざと雨に濡れ、愛想も悪くして接しようと決め込んでいたが、実際に先生を目の前にすると、とても人の良い先生で、僕も愛想よく接してしまい、筋を通そうとして、話の流れを読んでいるだけになっていると、かなり本格的な論文を作り上げる方向性に固まってしまう。

「家どこ?」
「蒲田です」
「遠いね。桜でも見て帰って、でもね、雨、降ってきちゃってるけど、じゃあ、また」

桜は、言われなくても、当然見る。そして家にはまだ、帰らない。
下北沢で芝居を見る用事があった。
Googleマップは、目黒川沿いの桜並木を見ながら、下北沢まで歩くルートをたまたま示したので、それに従う。
途中で、道端に傘が落ちていたので、拾う。
黄色い、服を着た交通指導員が、「学校」という旗を持って、横断歩道に立っていたので、写真を撮る。
下北沢「珉亭」の前で傘を畳む。カウンター席に座って、お冷を待つ間にメニューを決める。江戸っ子ラーメンを頼む。
中華スープに、白い、なよっとした麺が入っていて、ほうれん草と、キムチ、三角形の海苔が乗ったチャーシューを添えて出される。

シアター711で芝居を見る。105分あった。席が近すぎる。腕が当たる。腰が痛くなる。芝居では、主人公が整体師にマッサージを受けていて、僕もちょうど、そこを、揉んで欲しかった。腕を腰に回す。

家に着くと、マンションの駐輪場に停めていた黄色い自転車が、なくなっていた。



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