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『フェイブルマンズ』をみる。
映画の、編集することについての話だった。
撮られた素材の、何を映画にして、何を映画にしないのか。

2月の末、もう1ヶ月以上前に、『叫び声』という一人芝居をやって、そこでは役者の奥山と、作者の僕の実体験に、大江健三郎の小説や実際のエピソードや、僕の創作を混ぜた話をした。
最終的に奥山は奥山として登場したり、僕も将来の僕として登場したりするわけだが、普段あまり芝居や私小説などを見ない人たちからは、あれは本当の話なのか、奥山と僕どっちの話なのか、などのことが気になったようで、僕の両親も見ていたのだが、「親としては居心地の悪くなるような芝居だった」と言っていた。

普通に、作者は嘘が書けるわけで、仮に本当のことだったとしても、それを他人が演じるわけで、さらに仮に本人が本当のことを演じたとして、それをみる人にはそれが本当かどうかは分からない。

要するに他人のことはよく分からない、というだけの話で、他人の語った話で実証できる範囲など、ものすごく限られている。
そのよく分からない他人の話が、なんで問題になったり、共感や反発の対象になったりするのだろうか。それがよく分からず、『叫び声』をやってみたかった。結果、よく分からなかったが、よく分からない現象をまた一つ世の中に作り上げることができ、おそらく神経回路として、保存された。

今日は
大学近くの、3年前まで住んでいた町のあたりを歩いてみる。
時間をみると、フェイブルマンズに間に合うようだった。
映画館まで歩くことにした。
音楽が聞こえて、それは保育園の庭からのようだった。
保育園の庭は生垣で隠れていて見えない。
しばらくきくと「ジャンボリミッキー」の歌であることがわかり
ぴょんぴょん飛び跳ねている保育士の、頭と、湾曲した腕だけが見えた。


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