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『海がきこえる』という、
ジブリの映画があると思う。
あれ、観ましたか?
あれ、おかしくないですか?

今日は、「部活」の3人で『海がきこえる』を観ていた。
僕は再見だったんだけど、おかしすぎて、僕の感性の方が疑わしく思えてしまい、はやく他の人にも観てもらいたかったのだった。

やっぱり、普通に、ギャグ映画すぎるし、いくら好意的に観ても、劇伴は流石に面白すぎる。
みんなで手をたたいて笑ったり、舌打ちをしたりしながら観ている山口さんもいた。
だけど、決して悪い映画ではなくて、ずっと目が離せないし、むしろおかしい部分を含めて、大きな目でみたら、不思議で素晴らしい映画だと思う。

里伽子はいいのだ。どうでも。強いて気になることを言えば、伽の字が素晴らしいということ、もし高知大学に行っていたら面白いということ、高知大学が、「裁き」みたいになっていること、おそらく東京女子大学に入っていることと、あと生理の台詞くらいか。多少造形は強引すぎるものの、充分に作者の茶目っ気があり、憎みきることができない。

松野も、なんか、良いやつで、なんか余計なことをやりそうな、イケメンならそこで引きそうな、鈍感な押しをやってしまうお節介な感じは良かったし、里伽子に振られて親友に「あれはかなり食らったよ」と茶化さず言えるところとか偉すぎる。

ただ、この、杜崎拓という男、不気味すぎる。

この男は、何だかお義理で動いているように見える。
それも目の前の人物、松野や里伽子に対する義理ではなく、いわば、世界に対するお義理で動いているんじゃないか。
その時々の真実っぽいものに、とりあえず対応し、感心し、眺めている。流れが彼を運んでいて、それをみている。
このようなアンチ・ロマンな受動的な人物に、ロマンチスト・宮崎駿はご立腹をされたとかしなかったとかいう都市伝説もあるくらいだ。

まず、東京に進学を決めるシーンは唐突で不可解だし、松野の気持ちを知っておきながら里伽子の、あるいはモテ男ロールプレイのお義理に従って行動していくところ、里伽子リンチの後に意味不明なタイミングで入っていくところなど、ドキドキ文芸部の主人公のような厄介で有害な鈍感さが光っている。

極め付けは、桟橋の突端での、松野の「気づかなかったよ、お前が里伽子を好きだってこと」のセリフに対しての、不気味な半笑いの横顔である(そしてあの不気味な劇伴、「海がきこえる」!)

本当に好き、という事態がどういうものなのか、あり得るのか、僕には分からないが、あったとしたらこのような形はとらないだろう、
と、ロマンチスト・俺(おれ)は思う。
こいつは、誰も、本当に好きでは、ない。

寂れたアーケード街を抜けた先、虚しく高知城だけがライト・アップされていて、それをみて同窓会後の5人が佇むシーン。あの同窓会、普通に嫌すぎるし、山尾と小浜カップルがどうでもよすぎて、まじで画面が面白いことになってるんだが、高知城にアップしていって、里伽子との走馬灯が流れるシーン。フリーのインターネットゲームの、脱出ゲームの、良くないノーマルエンドのエンドロールのようなスカスカ感。その中で、何となく、里伽子が好きなのかぁ、そうかー、俺って里伽子好きってことなんかなー、きっとそうかなー、と納得していく杜崎クン。

あの空虚さには、何かあるんじゃないかと思ってしまう。実際調べたところ海がきこえるについて43もの記事を投稿しているnoteが見つかった。何がこんなに、この映画を不可解なものにしているのか。
杜崎の空虚さ、この三角関係の不気味さには、夏目漱石「こころ」のような、横光利一「機械」のような、人間の心的作用、「主体性」に対する実存主義的な懐疑が潜んでいそうな気もするし、単に青春ってこんなものだよね〜というだけの映画のような気もする。

松野の修学旅行についての意見書「きっと10年、20年経ってからも、先生たちのやり方は不当だったと思うとおもいます」をみた時には、この映画めちゃくちゃ良いのではないかと期待したが、この先こんなことになるとは、思っていなかった。だいたいそれに対する杜崎の「松野はすごいな〜、10年20年先のことも考えているんやな〜」ってなんだよ。

「今、ちょうど気持ち悪く感じる年齢だと思う。10年くらい経ったら、青春ってこんな感じだよな、って思うかもしれない」と山口さんが言って、
奥山は「日常」のページを見せて、杜崎の東京行きの唐突さとの類似を指摘していた。

行われていることの意味は、誰も分からず、「日常」のようなジャンプが行われているのかもしれない、と僕は思った。







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