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アミタの観た夢 (Xー3)

 心の中の陰鬱な雲間に陽が射した。
 第一志望の進学校の合格発表のために張り出された模造紙の列の中に、大勢の人たちの頭越しに自分の番号が見えたのだ。念のために手元の受験番号と発表された合格者番号を見比べて何度か首を上下した。間違いない。
 同じ中学から受験した友達が走ってきた。彼女も合格したらしく、手と手を取り合って、無邪気に飛び跳ねた。後で思えば、そのとき、左足の太ももに鈍痛が走った気がした。だが、すぐに忘れた。校庭の咲き初めた桜の向こう、青空をゆっくりと流れていく白い雲。今は何思い煩うことないという耀きにあふれていた。
 入学式の日、校門をくぐったところに、大勢の上級生が立ち並んでいた。彼らは野球のユニフォームを来ていたり、バレーボールのユニフォームを来ていたりした。早くも放課後のクラブ活動の勧誘チラシを配っているのだった。着物を着ている剽軽なお兄さんは落語研究会だろうか。
 先に同じ中学校を卒業した憧れの先輩は、この学校でも中学に続いてワンダーフォーゲル部に所属していると聞いていた。入学式の行わる体育館への道をきょろきょろと見まわしながら歩いていた奈津子は、服装はややバラバラだが一様に登山靴を履いている一群を見つけた。
 近づいていくと、懐かしい先輩の顔が見えた。一緒に来た母親に先に入場しているように頼み、奈津子は小走りに駆けていった。
 「大沢先輩!」
 「おお、高橋やんけ」
 入学式に急いでいたので、一瞬の再会だったが、ワンゲル部の案内チラシを受け取るのは忘れなかった。
 奈津子が理系進学クラスを希望しなかったのは、七時間目、時には八時間目まであるそのクラスに所属すると、思う存分クラブ活動ができないからだった。進学は奈津子が社会を見返すための大切な要素の一つだったが、高校生活をそのこと一色に染める気はなかった。部活動なども思い切り謳歌したかったのだ。
 とはいえ、ワンゲル部の普段の練習は地味だった。月から金は殆ど柔軟体操とマラソン。土曜日になると、二〇キロの砂袋を入れたリュックを背負って、学校から見える生駒山系の小さなピークに登る。山頂から自分たちの育った枚方の街を見渡す。絶景の斜面に腰かけて、お弁当を開いて食べる。
 斜めの草地の足元に広がる街には家々が続いていて、その向こうに光る一本の筋のような淀川が見えた。
大沢先輩が男子の仲間を外れて、奈津子の近くに「よいしょ」とわざと声を立てて座ることがあった。そして奈津子のお弁当を覗き込んだ。
「お、その唐揚げおいしそうやん」
「あっ、ダメですよ」
と言った時にはもうその唐揚げは大沢の箸に挟まれて、弁当箱から拉致されていた。
「お、うまい」
「私のこだわりの地鶏ですから・・・。あ、でも、あげるって言ってませんよ」
言うと、逆にケチなことを言うなよとでもいうように、肩をこづかれた。奈津子の顔に自然な笑みがこぼれた。
 大沢とのそのような瞬間が、奈津子の人生の中で最も屈託のない、幸せのピークだったかもしれない。
 山に登るたびに左足の太ももに残る疲労感と鈍痛がまさか重篤な病の前触れだったとは、まだ奈津子の想像の埒外だったのである。


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