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カルト論 すべての宗教固着を超えて

僕は結婚していたとき、妻子にバグワンのサニヤシンになるように薦めたことなど一度もない。講話を読むように言ったこともない。親鸞についても同じ。

友達や元恋人はいっぱいサニヤシンになったが、僕が薦めたわけではない。

高校生のときの彼女に「後輩が統一協会に入ったんだけど、脱洗脳して」と頼まれた。僕は大学の民青(ふだんはお前らマルクス読んでないし、、、と仲悪かった)に資料を借りに行って、読み込んでから、その子に会った。脱洗脳が成功した瞬間、その子はヘナヘナと膝を折ってその場に倒れた。へえ、こうなるんや!と思った。

次にその子に、カラコロのワークショップでたまたま会ったとき、サニヤシンになっていたのは笑った。

僕は、日本のすべての仏教宗派は開祖の意に反してカルト化しているから、やめることにした。これだけは、やめるということが、そのときの家族全員に影響した。

家の宗教にしたのは向こうなんだから仕方ない。

墓を棄てるときは、魂抜きの費用がかかると寺に言われた。

「はあ? それはあなたの信仰で僕には何の関係もないよ。霊感商法じゃないか!」と言った。中学生ぐらいのときから、家の法事の際にいつも僕だけ喧嘩していたその坊主はすべてを諦めた。

僕は神社仏閣に自分で布施をしたことは一度もない。小さい時、親が入れなさいと言ってくれた10円玉を賽銭箱に入れたことはあった。後でわけのわからない子どもにさせたらあかんと思ったので、自分の子どもにさせたことはない。

僕は家制度自体が天皇制の末端細胞だと思っていたので、核家族も解散した。そのことにより、自由恋愛になったのも大きいが、それと同じくらい、テレビを家に置かないという個人の選択を人に強制しないで、自分がテレビ教から解放されたのも、大きい生活変革と思う。

サニヤシンは23歳のときになった。途中からやってないに等しかったが、去年、アビシェーカという名前を棄て、ひかると名乗ると宣言した。

光が光るわけではないので、世界に主語や名詞が存在するというのは、幻想だと思い出させる動詞を、固有名詞にしたのだ。w

それ以上、説明するのはめんどくさいので、なるべく「魂の螺旋ダンス」を読んでください。

言葉の根源的な意味においては、宗教者だとわかると思う。

つまり、すべての固着を拒否して、魂の螺旋ダンスを踊り続けることだけが、生きている間にすることだということについて、シャーマニズムから世界宗教、マルクスやギリシア哲学などあらゆるものを引いて、謳ってます。


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