韓流ブーム(ジェンダーの視点から 2)

注 2000年代中盤頃の古い原稿です。

 僕らの島の人間は朝鮮半島の人々に対して、程よい距離感をうまく制御しきれず、時にはコンプレックスを、時には支配欲や差別心を抱いて来た。昨今の韓日の盛んな文化交流は、今やっと韓日が対等なダンスのパートナーになりつつあることを表しているのだろうか?

いわゆる韓流ブームについて考えてみよう。見失った愛や幸福を隣国のスターに投影し、回収すること。それは確かに侵略や差別に比べると別に悪いことではない。だが、集団として雪崩のようにそうなるということには僕はどうしても違和感を覚える。

北朝鮮バッシングも韓流ブームも、集団現象である点に気持ち悪さがある。憎悪にせよ憧憬にせよ、集団的に煽り立てられている様子は、何かが「ズレている」という気がする。

「出会いとは常に個的なものである」と僕は信じている。韓流ドラマの主なテーマである恋愛についても然りで、本来はきわめて個的な事件であるはずだ。ステレオタイプなストーリーに集団的に熱狂するのは、一種の思考停止の匂いがする。

女と男は具体的な出会いを通じてこそ、恋愛の豊かなプロセスを一緒に歩むことができる。愛する人と深く出会うとき、ふたつのエネルギーが溶け合い、体の境界は消える。そこにはひとつの宇宙がどこまでも広がっている。このような過程を通じて女も男もそれぞれが自立した両性具有的な存在として自己実現しうる。

そういった至福は、スターを「様」づけして呼び、集団的に追いかけることで果たして実現するだろうか?

具体的な出会いを抜きにして、その欠落を埋めるかのようにスターを追いかけるのはどこまでいっても代償行為にすぎないのではないか。

恋愛だけに限らず、人と人の豊かな出会いはいつも「あなたと私の出会い」である。それは国家に翻弄されたり、マスコミに踊らされたりするのとは別次元の根源的なできごとなのだ。

近代の東アジアには日本の侵略行為による大きなカルマがある。「ブーム」という名の集団幻想が、そのこんぐらがった業を解きほぐすことができるだろうか? むしろ集団幻想に踊らされることこそが、東アジアのカルマを作ってきた元凶なのだとしたら・・・。

過去の歴史を見つめきると共に、現在のブームからも自由になること。そして今ここにある私とあなたが直接豊かに出会っていくこと。そのような数々の「個的な出会い」だけが、東アジアの集団的なカルマを乗り越えていく鍵ではないか。

韓国の太極旗の中央には、陰陽のふたつの原理がうねりあいながら溶け合う図柄がある。宇宙のすべてを貫く女性原理と男性原理の融合を表している。僕は国家に旗などいらないと思っているが、男性原理を表す太陽だけでできている日の丸よりは、太極旗のほうがちょっと好きだったりする。

もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。