魂の螺旋ダンス(45)量子論より 詩的イメージ=蝶

・彼岸の光景~量子論より~

 少なくとも心肺停止の最初の一三分間、私は「死んでいた」。その間に私が(私なき私が)体験していた光景を後に想起し、「臨死体験」と呼んでいるゆえんである。

 臨死体験の話は聞いたことがあったし、何冊かの本も読んできた。しかし、私の「死の体験」はそのどれにも殆ど類似していなかった。

 自分の死体を上方から見下ろすといった体外離脱の体験もなかった。三途の川やトンネルのようなものを越えていくこともなかった。

 お花畑で先に亡くなった祖母や父に会うというようなこともなかった。

 私の体験はそれらすべてをすっ飛ばして、いきなり覚醒が全宇宙に広がるといった体験であった。

 ここでは仕方なく「覚醒」という言葉を使った。が、それは「私」という自覚の伴うものではなかった。
 それは自他不二(じたふに=非二元的な)の覚醒であって、「私」という思いはなかった。
 ただただどのような障りもなく澄み渡った覚醒が全時空に広がっていた。
 それは全時空、全宇宙に沁み渡ったと表現することもできれば、ひとつの光になったと表現することもできる。

 だが、言葉で表現する限り、どのように言い表しても、それは隠喩にすぎないという限界を伴う。

 それは仏教における空(くう)の世界であったと言ってもいい。
 だが、空という言葉さえ、まるでそのようなものが存在するかのように実体的に捉えてしまうのが、言葉を用いる人間の思考様式ではないだろうか。
 いずれにせよ、「それ」は完全に解放された境涯であり、時間も空間も私もなく、すべては滅して、寂静であった。

 自らの臨死体験を『プルーフ・オブ・ヘブン』という本に書き表した、アメリカの脳神経外科医にエベン・アレキザンダーがいる。

 彼は、蘇生の後、臨死体験中の自身のMRI画像などを精査し、このような結論に達した。
 「私の脳の活動が停止していたときにこそ、私は臨死体験していた」

 ここで重要なことは、人間の脳は意識を産み出すための物質的な根拠のようなものではなく、むしろ逆に広大無辺で融通無碍な覚醒を「私」という幻想に閉じ込めるための桎梏のようなものだという説のあることだ。

 脳神経パターンというものが、「私」という幻想を産み出す。

 そして私という幻想とともに、時間と空間という認識構造が現われる。それが「存在」の真相だ。

 これは仏教の五蘊説に照応する。識と呼ばれる主体が、受想行という認識作用によって色という客体と相依相対的に同時に成立する。

 その五蘊説をベースにした上で、『般若心経』において、観自在菩薩はその五蘊(色受想行識)のすべてが実は空であると説いたとされている。 

 私たちは脳神経パターンに閉じ込められた認識構造の中に生きているのだ。

 米国アリゾナ大学のスチュアート・ハメロフをはじめとする何人かの学者は「意識は脳内に量子レベルで貯蔵された情報」だと考えている。

 関連して、数理物理学者のロジャー・ペンローズは、肉体が死に行く過程で、脳内のマイクロチューブル(微小管)が保持する量子情報が無限の宇宙に徐々に放出されていくと主張している。

 ただし、この放出の過程の途中で蘇生した場合、量子情報はマイクロチューブルに回収され、意識を取り戻す。

 この放出と回収がいわゆる臨死体験であるというのである。もし蘇生できなかった場合、放出された量子は永遠に無限の宇宙に留まる。

 もっとも、私の視点では、この考え方も量子力学という学問の姿を借りた隠喩のひとつに過ぎない。

・ 蝶を放つ~詩的イメージより~

 一方、詩的な世界においては、古今東西、「蝶」が死と再生のシンボルであった。

 先の脳外科医アレキザンダーの『プルーフ・オブ・ヘブン』でも、表紙には赤紫の蝶が描かれ、各章の章題の下には小さな蝶がくっきりと描かれている。

 世界中で蝶が死と再生のシンボルであることの理由の一端は、蝶が完全変態の昆虫であることに拠るであろう。

 蛹の中で幼虫はいったん液体状になる。そして成虫原基を中心に新しく形態形成を行ってまったく形の違う成虫=蝶になる。
 このプロセスに古来多くの人々が死と再生の姿を投影してきたのである。

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