個人の了解こそ重要
信心は普遍的なもので二種深信などにも個人的体験の入る余地はないという意見への反論を書かれていた書込みにあびが書いたコメント。メモ残します。
(以下あびのコメント)
そもそも、如是我聞ということ自体、個人的体験やしと思いました。もし、個人的体験がいらんねんやったら「釈迦はこう言った」でいいんでは?と思いました。あと、親鸞の述懐としての「親鸞いちにんがためなりけり」も個人的体験やし。古田武彦の「わたしひとりの親鸞」も。
瞑想中に、人類史の中でそして今ここでも、虐殺し、レイプし、支配する側も、虐殺され、レイプされ、支配される側も自分だった、何度も何度でも・・・と、まざまざと感じて嘔吐したことがありました。あれが僕の機の深信かな。そんな自分が自分の力で自己解放することの絶対不可能性も含めて。
そして、そうであることを直視し見詰めきったときに条件に関わりなく射し込んできた限りなき光が法の深信かな。
Oさんの書かれることに共感するところ、多いなと思い、22日の書込みで一般家庭出身で、真宗に内発的に出会った方なんだなと知って、得心がいった感じです。
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