見出し画像

この世に投げ返されて (29)   ~臨死体験と生きていることの奇跡~

(29)

 電動車椅子が私にもたらした行動の自由は、殆ど無限だと言っても過言ではありません。
もちろん、街にも野にも私の簡易型電動車椅子では越えられない壁はたくさんありました。歩道などに段差がある場合、その高さが前輪の直径の三分の一を越えると、つっかかってしまいます。
しかし、そんな時は通りがかった誰かに声をかけ、少しだけ手伝ってもらえばよいのです。車椅子を押す後ろの取っ手に下へと体重をかけて沈めてもらうと、梃子の原理で逆に前輪が宙に上がります。
そこでレバーを押して後輪を電気で前向きに駆動すると、段に登ることが可能でした。
そのように行く先々で困ったことがあると誰かに助けてもらうこと。それを始めることで冷たい人にも、やさしい人にも、出会いました。これまでになかった色々な人との出会いが展開しました。
 その経験を国や地域の特色として言うことは、「その国や地域では全員がそうなんだ」と思われると、偏見に繋がるかもしれないのが危ない行為です。ですが、敢えて少しだけ触れます。
大都会、特に東京は冷たい場合が多いです。もともと普通の歩行者だった時から、東京ではすれ違うときに目の合わない人が多い、道を尋ねても無視して通り過ぎる人が多いというのは感じていました。さすがに車椅子で「立往生」しているのを無視はしないだろうと思っている自分がどこかにいました。が、実際には東京ではけっこうな確率で無視されました。
それで結局、欧米人などが通りがかった時に助けてくれたりしました。ここは日本の首都なのに。
ある時、東京でこんなことがありました。
私が「すみません。ちょっと手伝っていただけますか?」と声をかけるとその男性はきょとんとした表情をしました。無視する感じでもなく、すぐに駆け寄るわけでもない中途半端な感じでした。
どういうことだろう?と考えた私は、なるほど言葉が通じてないんだと推測しました。
実は私は英語のほかに中国語と韓国語がほんの少しできるのですが、試しに「请您帮助我」(私を手伝ってもらえますか)と中国語で言ってみました。すると「好的」と言って近づいてきて助けてくれました。
東京で日本語で何人かに話しかけたのですが、結局、中国語に切り替えたときに助けてもらえたこの経験は、色々な意味で私の人生観に影を落とすことになりました。
しかし、よくも悪くも偏見には繋げないでほしいのです。人にはそれぞれこれまでの人生経験や、育った文化、その時その時の事情(多忙さなど)があります。産まれた瞬間から「〇〇人はこうだ」というのは、当たっていないものの見方だと思います。
しかし、今の日本、特に東京のような大都会が、互いのことなどかまっていられない、どこか殺伐した空気の漂う街になってきているのかもしれないという論は、書き留めてみる意味はあると思って書きました。
そしてそれは人々をしてそういう生き方に追い込んでいる政治的、社会的課題も含んで考えるべきことだと思っています。
経験では、地元大阪では少し雰囲気が違います。もともと人と人はよく目が合うし、道を尋ねても応えてもらえることの多い都市だと思います。そして車椅子で困っているときも、少なくとも声をかければ殆ど誰でも立ち止まってくれて、「どうやったらええねん?」とラフに尋ねながらも、よほど急いでない限り、解決するまで付き合ってくれます。
そしてもっと地方の田舎に行くとまたそれぞれの特色を感じます。ただ、これは話し出すと長くなるし、少ない例を列挙すると、それこそ偏見に繋がりかねないので、割愛したいと思います。
車椅子で出かけて感じたことは、地元のタウン誌のコラム欄に連載の機会をいただいたことがありました。そこにも様々な角度から所感を書いてきましたが、いつか、それはそれでひとつのテーマとして本にしてみたいという思いもあります。
 
ところで私は二〇代の頃、世に言う「バックパッカー」でした。大きなリュックを背負って、アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸など各地を長い期間ひとり旅していました。
結婚して子どもが産まれてからは、しばらくその習慣は途絶えました。
しかし、教員時代にも米国の日本人学校に三年間勤務したことがあり、その際にも休暇を利用して、アラスカを含む全米、カナダ、メキシコ、ジャマイカなど北米・中米を中心に家族旅行をしたりしました。
どちらかというと旅好きの人間です。
身体障碍者となって、電動車椅子で移動するようになったことは、旅には不利な条件であったことは否めません。
一方、私は車椅子に乗るようになった頃には、子どもが成人し、それぞれ独立した生計を立てていました。
また、事情あって妻とは離婚していました。
そして、臨死体験からの生還を経て、不自由になった体で教職を続けることは、最終的には断念しました。
卑近な話、収入などは激減したのですが、その代わりに「時間持ち」になったという言い方ができます。
ふつふつと放浪の旅への意欲が蘇ってくるのを覚えました。少なくとも時間的にはそれが以前よりもたやすい状況になっていました。
 
こうして私は「電動車椅子で旅をする人」になりました。北海道や沖縄など、国内の旅での「腕試し」を経て、外国にもひとりで行けるという自信も出てきました。
この原稿の執筆時点で、まだ電動車椅子で行った外国は韓国と台湾だけですが、その経験は、貴重なものとなりました。
 
韓国には一九八〇年代、かの国がまだ「軍事独裁政権」だった頃に旅行した経験がありました。四〇年近く経って私は再び、今度は電動車椅子で韓国に旅立つことにしました。
その時の経験を私は短い文章に纏める機会がありました。というのも、ちょうど帰国してしばらくした頃、「日本人による韓国旅行のエッセイ」のコンクールを在日韓国大使館が催したのです。
私は韓国で人々が車椅子の日本人旅行者に対していかに親切だったかについては、書き記しておく意味があると感じていたので、応募しました。
幸い、作品は入選し、韓国大使館から「今後も韓国と日本の友好の懸け橋になってほしい」という表彰状をいただいたときはとても感激しました。
以下にそのエッセイを転載します。字数制限の中でとてもコンパクトに纏めたものです。
 
 
無数の見知らぬ手 ~車椅子旅行で感じた韓国人の心~
 
私は五十三歳にして心臓発作の低酸素状態の後遺症のため、身体障碍となった。
若い頃からバックパッカーだった私はそれでも旅をあきらめられなかった。
電動車椅子を手に入れた私はいくつかの国内旅行の後、外国へのひとり旅に挑むことにした。
その時、最初に選んだのが韓国の釜山である。韓国語の初歩を勉強していた私は、SNSの韓国フアンのページでのやりとりから、釜山の地下鉄がすべてバリアフリーであることを教えられたのだ。
 
 大阪南港からフェリーに乗った。
十五時に出港。夕食を食べてショーを見て眠る。
朝の十時には釜山国際フェリーターミナルに到着した。
そこから電動車椅子で一五分ほど走ると、釜山駅だった。そして隣接した地下鉄によって、釜山中にバリアフリーで移動することができた。
お隣りの国がこんなに近く、しかも不自由のない旅ができるなんて!
バリアフリーが進んでいるのは地下鉄だけではなかった。
たとえば海辺に行くと波打ち際の近くまで車椅子でも行ける遊歩道が設けてあった。また水族館で障碍者割引の表示があったので、試しに日本の障碍者手帳を見せると有効であったのも驚きだった。
心のバリアフリーも進んでいた。
段差があるところや急な坂道などで戸惑っていると、すぐに誰か彼かが走ってきて、手伝ってくれた。
地元の大阪でも声をかけると助けてくれる人はいるが、この「気づいたらすぐに向こうから走ってくる」というところに韓国人気質があるのではないかと感じた。
ある時、私はミスで地下鉄の自動改札を出られなくなった。
通りがかった女性に駅員を呼んでくれるように頼んだ。五分ほど待っただろうか。駅員と一緒に戻ってきたその女性は「長く待たせてごめんなさい。不安だったでしょう」と言って、なんと涙を浮かべていた。私自身よりも気持ちに思いを馳せ、心配し、涙まで浮かべてくれている。
ああ、韓国人の感情が激しいと言われているのはこのことなんだと私は実感した。
別のある時、私はふとした不注意で車椅子ごと転倒してしまい、額を打って、出血した。
通りがかりのたくさんの手が車椅子を起こしてくれた。誰かが私の額にティッシュを当ててくれている。
「ケンチャナヨ」私は覚えたての韓国語で言って動き始めた。
眼鏡が歪んでいたので眼鏡屋に行くと無料で修理してくれた上、日本語のできる人が薬局に案内してくれた。薬局では「消毒薬付きのバンドエイドがいいでしょう」と言って、店員が額に貼ってくれた。
 
ショッピングセンターなどで私が通る間、ちょっとドアを押さえておいてくれた手を含めると、私はこの旅で無数の韓国人に助けられた。
もう顔も思い出せない無数の見知らぬ手。
 
私たちのアジアには千手観音という美しく象徴的な菩薩像がある。
私にはその「千手」とは、たとえば、この旅で出会い、私を助けてくれた無数の見知らぬ手のことではなかったかと思えてくる。
そう思うと、今でも心が温かくなる。 (引用終わり)
 
これが車椅子で最初の韓国旅行でした。その後、台湾にも行きました。台北のMRTと呼ばれる地下鉄もすべてバリアフリーでした。車椅子の乗車コーナーも広く、常にたくさんの車椅子が乗車しているのが、常識になっているのを感じました。
また故宮博物院など主な観光地で日本の身体障碍者手帳が有効で、無料になりました。
人々も親切でちょっとでも立ち止まってグーグルマップなどを見ていると、近づいてきて、援助してくれました。片言でもこちらがその国の言語を学んでいてよかったと感じることもしばしばでした。
私は勇気を得て、現地情報を集めながらも少しずつ世界中を電動車椅子で旅してみたいと感じるようになりました。そこで感じた、社会や人々の車椅子への接し方への違いなどの文化論も大切な書き物になるように思いました。
残念なことに折りからのcovid-19の流行で、世界の旅の計画は途中で大きな変更を余儀なくされました。
しかし、その間に国内は、北の果ての利尻島から、南の果ての波照間島、西の果ての与那国島までたくさんの地域を車椅子で訪れました。その旅日記はそれだけで別の本にまとめたいという思いも心の中に温めています。
この地球という星に生まれて死ぬまでの間に、いったい私たちはどれだけの光景、人々、生き物、場面に出会い、観たり、感じたり、触れたり、食べたり、食べられたり、心を交流させたりすることでしょう。
臨死体験で観たように、死んでしまえばそこは完全な安らぎの世界ですが、もう具体的な何かに出会ったり、対立したり、傷つけあったり、優しくしたりされたりもできなくなります。
『なんでも見てやろう』という往年の小田実の書物のタイトルが頭の中を木霊します。すべては生きている間だけです。車椅子の私が旅していくと、戸惑う人や、面倒なことになったと思う人もいるかもしれません。しかし、それも含めて、すべては生きている間だけの触れ合いです。
私はこれからも、旅すること、出会うこと、交流することを死ぬまで諦めないで生きていくつもりです。

もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。