光る風 (6)

光一の家族はひとつの決断を下す必要に迫られていた。彼は人工呼吸器を口から挿入されていた。しかし、この状態は肺炎などの感染症を起こしやすい状態であった。
感染症が生じるとその分、さらに寿命が縮まる。
「気道切開して喉頭から人工呼吸器につなげば、感染症の確率は減少します。行いますか?」
医者は家族に判断を委ねた。その判断にはひとつの重大な意味が孕まれていた。より精密な医療機器によって安定した状態に置き、意識不明の植物状態の続くことを覚悟してでも、延命を優先するのか。家族はそれを問われていたのである。
だが、その判断の期限の迫った十日目に、光一の体はICU(集中治療室)の上で撥ねるように痙攣し始めた。
びっくりした光一の息子が看護師に報告に行った。駆け付けた看護師は「意識を回復する兆候です」と言った。
 その言葉どおり、ほどなく光一は朦朧とした意識の中で瞼を開いた。光一はそこが病院のICUであることを息子に告げられた。
「そうか」
そう言ったつもりだったが、光一の発声は殆ど言葉になっておらず、その日に関して言えば、実は殆ど聞き取れるものではなかったと後で息子に聞くことになる。
しかし、光一の脳裡には鮮明なヴィジョンが残っていた。光一はそれを懸命に言葉に置き換えようと、口を開いては素っ頓狂な声を喚げるのだった。

ただただ広大な宇宙が広がり、無数の星々がすだいていた。
金の指輪のかけらのような細い月が鋭利に耀いている。
青い惑星が背中を割ると、まるでその星がひとつの蛹であったかのように一羽の巨大な蛾が羽化して現れた。
蛾は羽を広げる。
ふいに蛾が惑星を離れて飛び立った。
その瞬間、巨大な蛾の羽が硬質な硝子のように粉々に砕けて飛び散った。
飛び散ったひとかけらひとかけらの硝子の破片を拡大して見ると、それは虹色に煌めく蝶であった。
無数の光る蝶がアーチを成して、地球と火星の谷間を渡っていく。
蝶たちの虹色の光の群れは、やがて透明な光のさざ波となって宇宙全体に広がっていく。
砕けて舞い踊る銀河の吹雪。
無数の銀河が浮かぶ時空の空隙を、光るさざ波が浸透していく。
光るさざ波は酸素の供給を失った光一の脳の微小管から放出された量子情報でもあった。
光一というひとりの人間の意識はさざ波の拡散とともに消えて、あらゆる量子情報と交じり合い、一如の覚醒となった。
永遠の今ここの不二なる覚醒。

病室のベッドの上に死んだように横たわる光一の身体。
脳浮腫、破裂しそうに膨れ上がった酸欠脳の炎症を抑えるため、医者が施すことができたのは脳を低温に保つための低体温療法だけだった。
光一の体表面は水冷式のブランケットに覆われ冷却されていた。その上で冷たい輸液が点滴され続け、体温は三二度にコントロールされていた。
だが、その効果は小児や若者以外には非常に限定的なものだった。
そのため、医者は意識を回復しないままの死亡あるいは植物人間かを覚悟するように家族に伝えていたのだ。
しかし、医学がとらえきれていない、哺乳類のもうひとつの蘇生機序が同時に進行していた。
光一の頭蓋の中で脳の松果体が微光を放っていた。
酸素の欠乏した脳のエマージェンシーは、松果体に著しいストレスを与え、奥の院の秘密の鍵のスイッチを作動させる。
生きている個体の中でトリプトファンは、活動する際にセロトニンに、眠るときにメラトニンに、明晰夢を観るときにDMTに形を変えて、意識の質のチャンネルを異なるギアにはめ続けてきた。
 だが今や生きている間には触れられることのなかった最奥の扉が開け放たれ、だらしない洪水のように漏れあふれ、脳髄を溺れさせているのは、AMITAのだった。
AMITAの沼に沈められた脳は、微小管の量子情報が宇宙に拡散している間、細胞自体の破壊が最小限に抑えられていた。
光一の体はICUのベッドの上に横たわったまま、彼の意識は時空に拡散して溶け、永遠の今ここの覚醒と一如となっていた。
その覚醒の光るさざ波は時空の中のあらゆる存在に浸透していた。
病室のベッドのわずかに皺の寄ったシーツに、
医療機器に、
白い天井に、
くすんだ黄色の壁に、
病院の七階の循環器病棟の意識があったりなかったりする患者たちの体に、
看護師詰所の患者の心拍をモニターしたスクリーンの並びに、
人間の患うあらゆる病変のために入院している全病棟の患者たちに、
そのそれぞれが横たわり、半身を起こし、車輪の付いた点滴スタンドを片手で押しながらよろよろと廊下を行き交う姿に、
廊下のリノリウムの床に、
その床にモップをかけるフィリピンの中年女性の淡いピンクの制服に、
一階のコンビニエンスストアの中国人の胸に刺さった孫と書いた名札に、
病院の玄関前ポーチに回ってきたタクシーに、
病院の裏手にある公園の蕾が膨らみはじめた桜の樹に、
公園の石のベンチに座っている女の子に。
高い空を流れる雲に、
もっと上空の大気の薄い層の空気分子が乱反射する紫の光に、
青い星に渦巻く雲に、
あばただらけの月の表面に、
水の流れない運河が紋様を成す火星に、
小惑星のメインベルトを流れる造作の限りを尽くした無数のアステロイドに(ひとつひとつの岩の芯まで)、
木星の節の目に、
土星の環を成す氷の核となっている塵に、
太陽系を遠く離れた暗黒に、
近い恒星、遠い恒星に、
渦巻く銀河に、
幾多の銀河に、宇宙の末端に。

宇宙の末端では、見えない光の河が滝となって時空が果て続けていた。
滝の轟はAUMという響きになり、何重もの倍音になって時空に跳ね返った。
その音なき音は宇宙に響き渡り、
一気に地球に到達すると、
電子音、
鳥の声、
蟲の羽音、
子どもの笑い声、
蛙飛び込む水の音、
チベット寺院の僧侶たちのマントラとひとつに溶けた。

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