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縁起生空の真意

古い日記だが、転載しておく。

縁起生空の真意

 人生後半にいくつかの課題に決着をつけたいと思っている。そのうちのひとつは「縁起生空」の真意という課題である。

 仏教では、空性と名付けられるものが何かあるわけではない。ただ仏教は「一切は縁起生だから空である」と叙述しているだけである。

 この場合の縁起とは十二縁起以外ではありえない。したがって、ジョアンナ・メイシーが八千頌般若経を典拠に語ろうと、この世の水平次元での相互連系的同時生起は仏教の縁起生空とは関係ない。ディープエコロジーは仏教ではない。

 ティクナットハンが、「紙の中に流れる雲を見る」というのもこの世の水平次元の縁を指すだけから、仏教の縁起生空とは関係ない。

 次にインド思想がブラフマンとアートマンの一致というのも、そもそもそのような常住の存在を否定した「諸法無我」ということが、仏教の旗印である限りにおいて、仏教とは関係ない。それをサッチタナンダ(真実=意識=至福)と言い換えても、やはり仏教とは関係ない。

 従って、宇宙と個の融合体験としてのマハムドラーも実は仏教とは関係ない。チベット密教は、ヒンズー的な融合体験を説くがそれは仏教とは関係ない。仏教では融合する個も宇宙も縁起生空であるから、その融合ということ自体がありえない。

 神秘思想のエッセンスとしての「永遠の今ここ」も、仏教とは関係ないのではないか。それら永遠の哲学は、神智学会がインド思想を欧米に輸入したとき、ドイツ神秘主義などの西欧の伝統、遡ればプラトン主義などと折衷されて構成されたものだ。

 後にチベット仏教のニンマ派などの神秘主義的傾向もそこに取り入れられたのだが、それらは本来の仏教の説く「縁起生空」の真意からは遠く、何か永遠なる光が存在し、そこからこの世のすべてが流れ出して踊っているというような世界観となっている。

 「縁起生空」の真意からすると、永遠なるものは、たとえ「クリアーライト」であれ、「空性」そのものであれ、存在しない。

 それらは、仏教のいう戒定慧の三学うちの「定」の意味する「サマディ(三昧)」の体験から得られた思想だと考えられる。しかし、仏教では「定」は窮極ではない。「慧」が悟りである。

 六波羅蜜でいうならば、布施、持戒、にんにく、精進、禅定、般若の、禅定が窮極ではない。禅定には、永遠なるもの一体になったという法悦はあるが、縁起生空の理解としての般若波羅蜜に至っていない。

 しかし、僕のグルであったOSHOも、グルマイも、そのことへの留意が不足しており、永遠との融合体験を窮極のものと説く傾向があった。それはグルマイについては、彼女がヒンズー教のサマディを重視する思想の範疇にいるからであろう。

 またOSHOについては、仏教を援用しながらも、神智学会的なものを通した仏教理解の限界のゆえに「如来蔵思想」を旨としてしまっているからだと思われる。それは唯心主義的な神秘家の思想であり、「仏教」ではない。

 だから、そこには社会契約説ではない社会有機体説との結びつきが生じてしまう。ヒンズー教と同じように、この世の現実的な差別事象を永遠なるものの中に解消してしまい、「あるがままに」肯定してしまう傾向が生じる。

 カースト制度や天皇制との親和性が強い。

 このことについて、決着をつけないと、僕は人生の終焉を迎えることができないという気がするのだ。  

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