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この世に投げ返されて 臨死体験と生きていることの奇跡 (10)

 臨死体験で観た「生と死を超えた境地」の特徴を一言で表すとするならば。何の障りもない(融通無碍)、無限の至福と安らぎに満ちた覚醒です。
 そこに自足する限り、何の問題も不満もありません。
 しかし、これはこの娑婆世界に還ってきてから気づいたことなのですが、あの世界ではこの世に何のはたらきかけもすることができないのです。それだけが「生死を超えた境涯」のたったひとつ寂しい面なのです。
 いや、「生死を超えた覚醒」の只中にあるとき、私は「寂しい」と感じていたわけではありません。繰り返しになりますが、そこには何の問題も不満もありませんでした。
 が、この娑婆世界に還ってきてから振り返ってみるならば、あの「完全な世界」のたったひとつ寂しいところは、この世に具体的にはたらきかけることができないということなのです。
 もしも娑婆世界で苦しんでいる人がいても、声をかけることもできません。話しかけることができないばかりか、話を聞いてあげることもできません。落ち込んでがっくり肩を落としている背中を見ても、その背中に手をあててあげることもできないのです。
 ただ背中に手をあててもらうこと、それによってどれほど安らぎが満ち、体が緩み、心が解放されていくか。それを生きている私たちは知っていて、互いにそうすることができます。
自分はどれほど安らぎに満ちていても、それを伝播することができないのが、生死を超えて、娑婆との交わりを失った世界なのです。
 もとより「完全な世界」から観ると、彼らも一切の生き物も、いや山や川や海や空、街さえもひとつの無碍なる光であり、そこには実は何の問題もありません。
 しかし、娑婆世界の只中にあるとき、そこには様々な精神的・身体的な苦しみ、悩みがあります。病があり、死があり、出会いがある反面、別れがあります。
どうにかしたいけれども、どうにもならないことがあります。
憎しみ合いがあり、殺し合いがあり、愛する人が目の前で死んでいくこともあります。
追い詰められた事情の中で、愛する人を殺さなければならないことすらあるのです。
そのような「現実」に対して何のはたらきかけもできない世界。それが「生死を超えた安らぎと覚醒の広がる世界」だとしたら、私たちはそこに留まりたいでしょうか。
いや、その世界を知ったからこそ、その味わいの片鱗でもいい、娑婆世界で苦しみにもがいて流転するあらゆる存在に伝えたいと感じるのです。
そのため、仏教では菩薩と呼ばれる存在はその「完全な世界」に留まることをあえて避け、もう一度、煩悩に満ちた娑婆世界に生まれなおすといいます。融通無碍なる永遠の今ここと、時空の中にある限界のある世界が交わるのです。
その風光を親鸞は「正信偈」と呼ばれる偈頌の中で、天親の『浄土論』の言葉を借りながら、次のように謳いあげています。
次のうち前の二句が「永遠の今ここ」を、後の二句がそこから敢えて「時空の中にある娑婆」に参入していく様子を表しています。

得至蓮華蔵世界

こうして私たちは生と死を超えて
私たちは(悟りを表す)蓮華の美しく咲く
安らかで軽やかな世界に生まれます

即証真如法性身

色もなく形もない完全に解放された光
空そのものを悟り、味わうことになるのです

遊煩悩林現神通

さあ、自由で解放された境地のままに
煩悩に満ち満ちた林に戻って遊びましょう
すべての人の悩みを聞き届け解き明かす力をもって
人々の瞳を覗き、手を握りましょう

入生死園示応化

生と死、迷いに満ちた意識の中を堂々巡りするお花畑に
あえて入っていって
あらゆるものたちと共に歌い踊りましょう

引用は以下の私の書物より


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