見出し画像

親鸞に聖徳太子信仰はあったか


親鸞に聖徳太子信仰があったはずはない。というのは、大谷大学の学生の頃からの直感であった。
だが、教授にも学友にも同じ意見の者はいなかった。またふたつの聖徳太子和讃の存在が、私の「思想的に矛盾しているではないか」という主張よりも、「事実」として先行するとされると、僕の論拠は「思想的に矛盾している」の一点しかなかった。
しかし、それにしても「教行信証」の神祇不拝・国王不礼と矛盾する。聖徳太子は皇太子であるから、親鸞としては同じく仏法を信仰する同朋とすることはあっても、「国王不礼」でなければならない。
この問題は長い間の懸案事項であった。しかし、2008年に「日本宗教文化史研究」第12巻2号に遠藤美保子氏の「親鸞本人に聖徳太子信仰はあったか」という論文が出た。
今しばらくこの論文によって、親鸞本人の聖徳太子信仰は極めて疑わしい点について、わかりやすい点のみ、まとめてみよう。

(1)六角堂参籠は、天台系列、観音霊験所、聖覚(法然のところへ導く)ゆかりの寺という点から十分説明できる。また夢告の内容が、性の根源的受容であったとしても、太子信仰に基づいて夢を乞うた結果得られたものであるとする理由は何もない。(特に後者について私は、大谷大学の講義中、いったい聖徳太子と性の受容に何の関係が???と思って聞いていたが、何度も同じ話をきかされたという印象が残っているのを想い出す。)

(2)「皇太子奉讃」「粟散王奉讃」いずれも親鸞の真蹟が伝わらない。
「皇太子奉賛」の古い写本は、一ページに一首を4行書きである体裁であるが、1ページ目だけが「愚禿親鸞作 皇太子聖徳奉讃」の2行と一首目の4行の計6行で、右下の「愚禿親鸞作」が他のページの一行目に比べてかなり綴じ目に近い。また親鸞の漢文力からは考えにくい漢文の返り点の誤読がある。
(ただし、遠藤美保子氏の一連の研究発表が行われた後の2012年、突如、親鸞真蹟の一部が見つかったとされる。なんで遠藤さんの研究の後? なんか不自然。)http://www.nikkei.com/article/DGXNASHC03031_T01C12A0AC8000/

(3)内容的検討(特に私も強調したいところ)
1.「皇太子奉讃」の中、「四天王寺御手印縁起」を史料とする太子の史伝部分に物部守屋を討つことを「一殺多生」として正しいとする思想、また護国のために新羅に侵攻することを(侵略戦争)正しいとする思想が見られる。そこにある朝鮮半島の評価として、「御手印縁起」にすら見られない「有情のありさま悉く(創作)」という言葉をはさみ、「貪狼の心盛んなり」に結びつけられている。要するに「あいつらは皆、狼のように貪る心が盛んなのだ」と、今でいう嫌韓が強調されているわけだが、その「あいつらは皆」をわざわざ親鸞が入れたとは信じがたい。
2.用語を検討すると親鸞の言葉づかいではない。
教主という言葉を親鸞は釈迦以外に用いたことはない。しかし、聖徳太子を和国の教主と表現するのは、極めて不自然。
帰命という言葉を親鸞は阿弥陀如来以外に用いたことはない。高僧和讃で、菩薩とされる存在にすら用いていない。しかし、「皇太子和讃」第一首で日本国帰命聖徳太子といい、「粟散王奉讃」第三首で「一心に帰命し奉り」(和国の教主聖徳皇に)というのは極めて不自然。
ふたつの和讃ともに、第4首が「奉讃不退ならしめよ」であるが、親鸞にとって「不退」とは「不退転に住する」すなわち「正定聚」と同じ。(「現生正定聚」=「現生不退」)それを通常の「退かない」という意味で用いるのは極めて不自然。
助動詞「き」と「けり」の使い方に作者の癖があり、親鸞の文体とは異なる。
3.晩年に髙田派との関係から太子に関心を持ち、いくつかの書を書写した可能性はあるが、(若い頃からの)積極的な信仰の証拠とはならない。
4.朝家安穏など護国思想を含む太子和讃が、親鸞の思想であるかどうかの検討は、語句の用法や思想の背景を通して、取り組み続けたい。
この遠藤美保子氏の論文を読んで私は40年近いもやもやが解ける思いだった。しかし、この論文以降に、真蹟が一部見つかったなどのニュースがある。仮にそれが真蹟だとしたら、太子和讃の書写の証拠とはなるだろう。しかし、太子和讃が親鸞の思想である証拠にはならない。しかし、もしも、(よもやあるまいが)、動かぬ証拠で、太子和讃が親鸞の思想であることが証明されたら、私は親鸞への尊敬をやめるだけで、宇宙の真実と私の関係には何の変更もありません。(^0^)

補足
(3)1 そこにある朝鮮半島の評価として、「御手印縁起」にすら見られない「有情のありさま悉く(創作)」という言葉をはさみ、「貪狼の心盛んなり」に結びつけられている。要するに「あいつらは皆、狼のように貪る心が盛んなのだ」と、今でいう嫌韓が強調されているわけだが、その「あいつらは皆」をわざわざ親鸞が入れたとは信じがたい。

この点について補足。空海が蝦夷は「狼の心と蜂の毒針のように人を刺す心をもった存在」と言い、「顔は人間で心は獣で、朝廷に服属しようとしない」(いずれも長澤訳。拙著「魂の螺旋ダンス」より)と言ったのに対して、親鸞は蝦夷を「ともがら」と呼び、「しかるべき業や縁があれば、人はどんな振る舞いでもするものなのです」(長澤訳「超簡単訳 歎異抄・般若心経」より)と平等の地平においた。それなのに、今、聖徳太子の嫌韓には「あいつら皆」と補ってまで煽ったというのは、完全におかしい。百歩譲って、朝鮮半島にも蝦夷にも大和にも悪い人はいると認めても、絶対に「悉く」(例外なく皆)とは言えないはずである。それは業と縁によるのであって、人種で決まるのではない。空海の人種差別に同意しなかった親鸞が、聖徳太子の人種差別に同意したとするのは変!


もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。