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「スピリチュアル系」質問と回答

少しく以前の質問に対する応答、今更になりましたので、見ない人も多くなってしまうのではないかと思い、再掲します。

Naomi Ishihara 長澤さんがいう、”スピリチュアル系”というのはどういうものなのですか?

長澤 靖浩 スピリチュアル系に関する質問、永く、脇においてすみませんでした。この言葉は範囲がとても広くて、どのレベルで何を応えるのか、選択が難しいところでもあります。

歴史的に言うと、現在のスピ系というのは、マダム・ブラバッキーが神智学協会を作ったことに始まると思います。それはヨーロッパの秘教の再発見と、東洋の神秘主義の再発見という源泉をもち、大きな流れになりました。

長澤 靖浩 神智学協会の第二代の会長はアニー・ベサントですね。日本での認知度は低いけど、リスペクトするべきフェミニストでもありました。インドに本部のあった神智学協会でベサントは多くの仕事をしましたが、特筆するべきは、クリシュナムルティを救世主として養成すること、ルドルフシュタイナーを神智学協会から除名すること、モンテッソーリの亡命を助け、モンテッソーリ教育の確立に寄与したことです。

長澤 靖浩 後にクリシュナムルティは「真理は道なき大地である」という有名な言葉を宣言し、自らが救世主であることを拒否します。神智学協会を除名になったシュタイナーは人智学協会をつくります。モンテッソーリは貧しい、あるいは発達障害のある子どもの教育に力をいれます。その背景には宇宙的な視野がありますが、彼女は現在ではスピ系というより、教育者として有名です。

長澤 靖浩 一方、神智学協会は世界のさまざまな叡智との対話を進めます。日本の禅者鈴木大拙もその一人です。問題は、現在の欧米で理解されるインド、チベットなどには神智学協会のバイアスがかかっていることが多いということです。「チベットの死者の書」などはその典型です。これが埋蔵経典と言う名目の偽書であり、阿毘達磨倶舎論の杜撰な改竄であることは、正統派の仏教学の文献研究では常識ですが、ウェンツの部分訳でカリフォルニアのヒッピーに流行してしまい、それをまた日本ではNHKが有難がって特集番組にするなど、めちゃくちゃになってきました。

Naomi Ishihara こんなに丁寧にしかして簡潔に説明してくださるとは。ありがとうございます。ってか、まだ終わってませんね?

長澤 靖浩 そんな歴史も何も知らずに、神智学協会を源泉とする神秘思想の上澄みのようなものを適当にアレンジしているのが、現在の日本のスピリチュアル系と呼ばれる人々だと思います。そこには根本的な問題が無数に内在しますが、僕が大事だと思う点を次に上げます。

長澤 靖浩 まずひとつは、透明な完全な世界と、地上の汚れた世界という二元論がそこにはつきまとっています。透明な完全な世界から、流出した不完全な世界が我々のこの世界であるという考え方です。したがって、その完全な世界に、何等かの方法、瞑想とか、天使のみちびきとか、宇宙存在のご託宣とか、何でもいいんですけど、そういうものを通じて回帰しようとするのが、現在日本のスピだと僕は想います。ですからそこには意識しようとしまいと、この世を下に見る「上から目線」があります。たとえば、オウム真理教の間違いは、社会的にはサリン事件を起こしたことが一番大きいですが、思想的には「完全な悟りの状態」というものを固定できると考えた点にあると思います。

長澤 靖浩 拙著「魂の螺旋ダンス」からオウム真理教の下りを引用します。

長澤 靖浩 ・ オウム真理教の構造

サイコテクノロジーそのものは、人類が太古から有しているものだ。インドにおけるその歴史を簡単に振り返ってみよう。

太古のインドでは、聖なる植物を摂取したり、太鼓を連打して踊り続けたりすることにより、変性意識に至る技法が用いられていた。が、それらが祭司階級により弾圧されると、主に特定の姿勢の保持と呼吸の制御、マントラの詠唱などによる変性意識が追求されるようになり、ヨーガの体系が発達した。(テレンス・マッケナ『神々の糧』等)

クンダリニー・ヨーガはその中でも最も強力なテクニックであった。またそこには、エネルギーのポテンシャルの高いグルが、弟子のクンダリニーと共鳴現象を起こし、その目覚めを促すシャクティパットのテクニックも加わった。そのため、通常のヨーガでは何年もの修行を必要とするエネルギーの目覚めを極めて短時間で達成することも可能となった。

このようにして目覚めたエネルギーは、心身のトラウマやブロックといったものを焼きつくす。最初のうち、そのエネルギーの働きは燃えるような熱さとして感じられる。だが、それはエネルギーそのものの熱さというよりも、燃えていく業(カルマ)の熱さである。主なブロックが焼き尽くされると、エネルギーは今度はさわやかな風のようなものとして感じられる。心身を吹き抜ける宇宙の風。あるいは透明な光。自己は、その自在な光と風のゆらぎの中に見えなくなる。

自己が見えなくなるといっても、意識がなくなるわけではない。鮮やかに目覚めた観照性そのものはそこにある。だが、何といったらいいのだろう。いつものあの固い主体のようなものが見当たらなくなり、ただ軽やかに今ここのプロセスを踊っている手のひらの舞が見えるばかりなのだ。こうして、私は立ち上がり、日々の営み(行住坐臥)を始める。ただただ今ここにあり、プロセスを生きる。だが、その突き抜けるような自在さは、しばしば見失われる。

だが、見失われたあの状態を、再び得ようと焦ることは、むしろ問題をこじれさせる。常にその状態にあることだけが真実だというこだわりは、それ自体、新しいブロックだ。無心の舞を持続「しようとする」ことによっては、けっして「無心の」舞は起こりえない。まさしくその「持続しよう」とする心が作為だからだ。

この人為的な無心の絶対不可能性の直視において、私は再び自己を手放す。いや手放すのではなく、その絶対不可能性を観た瞬間に、初めからあった光の舞だけが、そこにある。私が親鸞思想の三心に見たのは、そのような構造において、瞬間瞬間に目覚めを更新していくあり方なのであった。

だが、それをコントロールし、不動のものにしたいという欲望は、人間の心に生じやすいものだ。麻原彰晃は、その「完全に解放された状態」を固定できると考えた。

「では、ヴァジラヤーナとは何だと。これはいっさいの干渉する要因、それを肯定する。そして肯定していながら、それといっさい無干渉の自分自身の心をつくり上げていくと。その情報に左右されないと。金剛の心をつくると。これがヴァジラヤーナである。」「ということは結論は何かと。それは、いっさいの心を動かす要因から完全に解放され、そして自由になることである」(『ヴァジラヤーナコース 教学システム』麻原彰晃)

ヴァジラヤーナとは後期密教が、自らの大乗の次に来る教えとして定義する際の呼称である。麻原はそれを自分なりに歪曲して表現しているようである。実際のヴァジラヤーナがどのような思想を展開していたのかは、麻原の言動とは別に慎重な検討を要するだろう。

そこで、ここでは麻原の言動に沿って言うのだが、「いっさい無干渉の心」「左右されない金剛の心」を得て、それを完全に固定してしまおうとするこの思想の傾きは、超越性宗教が再び固着を起こし、権威化する際の典型的な最悪のパターンを示しているのである。

(引用終わり)

さて、次に来る問題はいわゆる「ポジティブシンキング」です。世界が、完全性の中から魂的な力において流れ出しているものである限り、魂を浄化し、ポジティブな創造性を発揮しつづければ、自己責任において幸福を創りだせるという「伝説」です。そのこと自体は完全な間違いとは言えないかもしれない、前向きな気持ちで努力することは大事だという意味では。しかし、日本のスピにおいては、「すべては自己の選択であり、幸福は自分次第。ポジティブな姿勢を持てば必ず実現する」とまで言い切った。このことにより、物事の社会的責任が切り捨てられたのです。

おりしも、このような考えに結びついた自己啓発セミナーなどが流行したのは、日本のバブルの絶頂期です。そこではこの考え方がある程度の社会的経済的リアリティを持っていたことも問題でした。しかし、バブルが崩壊しても、スピ系の人はこの考えにしがみつきました。福島原発が大事故を起こしても、放射能そのものより、ポジティブでいるほうが大事だと言い続けた人もいたほどです。

ポジティブシンキングの問題は、ひとことでいうと「カテゴリーエラー」です。社会的な問題は社会的な文脈で問題化し、解決をはかるしかない。そこをごっちゃにして、個人責任論に返してしまうという重大な罪責を「ポジティブシンキング」という思想は背負ってしまったのです。

長澤 靖浩 このぐらいで、この質問を修了していいでしょうか?


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