光る風 (5)

FACEBOOKは交換したものの、光一は殆どSNSを触わる習慣がなかった。
キムソラとはメッセンジャーでいつでも連絡できる状態ではあったが、どちらから連絡することもなく月日が流れた。
突然吹いた風、思わぬ転倒、医務室での会話でわかったミエを介した機縁。あの時は深い縁で結ばれているのかと、「宇宙はいつもやってくれるなあ」といういつもの言葉すら脳裡を横切った。
だが、後には何も続かない一期一会の出会いは人生にあふれかえっている。
無数の扉が開いては閉じていく中をジェットコースターは疾走していく。
それしかないし、それでいいと光一の腹が決まったのは、やはりあの「臨死体験」以後のことだった。
六年前の心室細動による心肺停止、それに続いた臨死体験。
光一は今一度思いを馳せた。

 光一は野外のライブ会場で突然の心室細動に見舞われて倒れたらしい。「らしい」と曖昧な言い方が相応しいのは、光一は昏倒した際のショックで、その日の朝からの記憶を殆ど失っているからだ。
今だにその時間の空白は埋められていない。
覚えている限りの最後の映像は、自宅から最寄り駅に向かう途中、横断歩道を渡ろうとしていた外国人の親子だ。白人の若い父親と、小学校低学年に見える息子。学校の教員をしていた光一は、毎朝出勤するとき彼らとすれ違い、日本語で「おはようございます」と挨拶を交わしていた。朝の光の中でその二人を見たのもそれが最後だ。
そこからの記憶が戻らない。駅で切符を買い、電車に乗り、ライブ会場まで移動して、当日券を買って入場したはずだ。その一切を思い出さない。人生の中にぽっかりと空白が空いているような不可思議な感覚だ。医者には、昏倒とそれに次ぐ意識不明の後には、その前の記憶がざっくりと戻らないことはよくあることだと説明された。
だから、ここからは光一にとって「予測による回想」に過ぎないのだが、彼は習慣どおりに、できる限り前列に出て踊っていたに違いない。座席指定のない会場ではいつもそのようにするからだ。
そんな記憶すら戻らない一方、光一には、自分が倒れた瞬間の映像が斜め上空から鮮明に見えるのだった。
アニメで頭の周辺に蝶が舞い、くるくると頭を回転させてばたりと倒れる人の姿が描写されることがある。ちょうどそのように光一は頭頂で数回、空中に輪を描いた。そして膝の力を失ってくにゃりとその場にへたりこみ、そのまま仰向けに横たわったのだ。
瞳孔が散大している。
瞳の奥、網膜のスクリーンに遠い空を流れる雲が映っている。
会場にもAED(自動体外式除細動器)はあったはずである。だが、スタッフも含め、とっさにそれを使おうとする人はいなかったようだ。
誰かが救急車を呼んだ。救急隊員が到着した時は、光一は心肺停止状態だった。心室細動を起こした心臓の状態を正確に言うと、心筋が微細に振動していて、血流を送り出すための正常な心拍を打っていない。身体に血の巡らない、事実上の心停止である。
この時は、それに伴い、肺の動きも止まっており、それを以て心肺停止という。医療の発達していない時代なら、「死」に等しい。
後に医者に受けた説明によると、その心肺停止時間は推定で十三分間だったという。通常であれば、脳細胞が再帰不能なまでに破壊され、意識を取り戻さないまま彼岸に追いやられたままになるはずの容態だった。
到着した救急隊員はすぐにAEDを光一に装着した。一回目の電気ショックで光一の心臓は微細な痙攣を止めた。そして元通りの心拍を打ち始めた。血管を血流が流れ通う。体の隅々の毛細血管が膨らみ、青ざめた身体が生気を取り戻す。と同時に脳の中にも血液が通い始める。脳細胞の一部は既に死滅してしまっていた。だが、辛うじて生き残り、再びの血の流れを渇望していた細胞は、染みわたる酸素を貪り始めた。
停止したままの肺のために救急隊員が人工呼吸器を繋いだ。血液に酸素が満ち、蘇ったばかりの心臓が豊かな酸素濃度の血液を全身に運ぶ。
 光一を乗せた担架がストレッチャーに乗せられ、さらに救急車の後部に吸い込まれていく。幸い、受け入れを認めた、循環器科の充実した病院へ、意識を失ったままの光一の体は搬送されていった。

 人工呼吸器に繋がれたまま、光一の意識不明の状態は十日間続いた。
見舞いに訪れた息子や娘、離婚していた元妻は、医者から「命の保証はない。
 意識の回復しないまま臨終を迎える可能性は高い」という説明を受けていた。
 ところがその間に、光一自身は死後の世界を垣間見る不思議な体験をしていた。


もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。