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クラスメート オリジナルソング

2012年、S中学3年1組、文化祭オリジナル劇『マジすかイケメンパラダイス』劇中歌。(記事の最後にyoutubeへのリンクあり)

当時流行していたテレビドラマ『マジすか学園』と『花ざかりの君たちへ〜イケメンパラダイス』を合体したドラマを、秋の文化祭の劇にしたいと7月のホームルームで決定したが、シナリオを書くという子がいない。
てか、担任の僕は書く気まんまんだった。

夏休み、テレビを持たない僕は、中国のネットサイトで、ふたつの番組を第一回から最終回まで全部見た。(余談 教員の夏休みを奪うな!)
そして、無理やり20分枠のシナリオにした。
(シナリオ出てきたらOCRでデジタル化してnoteに載せます。)

その劇の話は措いといて、

この「クラスメート」という歌は、現役の中学3年生しかわからないところがあるようだ。

今日、ギタリストと話していて解説すると、なるほどと理解を深めながら、「あびさんのCDつくるとき、ライナーノートに歌詞の解説あった方がいいですね」と言い出した。

僕の実感では、教室で披露した時、中三生たちの目は歌詞を理解していた。
別に国語の成績がよいわけではないヤンチャくれの男子2名が廊下を歩きながら、「ええ歌やんな」と話してるのも聞こえてきた。
日々の自分たちの現実だからわかるということではないか。

では、まず歌詞を文字化しておこう。

クラスメート  詞・曲  あび

(1)

きみとつながりたくて わざとからかってみた

きみにイヤな顔されて ますます孤独を感じた

授業わからなくて 君に話しかけた

君も笑ってくれた だけど不安だった

恋したり 別れたり それでも友達はずっと

そばにいて支えてくれた いつもありがとう

(2)

少しふざけすぎて 君を傷つけた

君の悲しそうな顔 見てると辛かった

未来が見えてこなくて はしゃいでごまかしてた

いつか見つかるだろうか 私の大切な道

夢見たり落ち込んだり それでも友達はずっと

責めもせずわかってくれた いつもありがとう


そのまんま誰でも、そこらの大人でもわかるところはあると思う。
ちょっと補足してみたいことだけ解説しよう。

授業わからなくて 君に話しかけた

君も笑ってくれた だけど不安だった

昔、教員の友達と筒井康隆の悪魔の辞典に倣って、『学校用語辞典』を途中まで作ったことがあった。
その際、見出し語「私語」の項目はおよそ次のようなものだった。

「私語」・・・授業中に発せられるすべての発語。教員だけがそれが私語であることに気づいていない。

ブラックジョークはさておき、教員は自分の定義における私語に対して「うるさい」と言うことがままある。
しかし、(「発言はすべて手を挙げて指名されてから」という指導を徹底している教員は別にして、)授業進行上、都合のいいつぶやきや、発言に対しては拾いあげて「いい質問だねえ」とか「よく気がついたねえ」と言うこともある。
勝手なものである。

ところで授業中に、教師主導の進行とはまったく関係のない話をする子の多くは授業がわからないから違う話をするのである。
わかりきってつまんないから、という理由も0ではないが、そういう子は発語するより、「内職」に励む場合の方が多い。またはわかっていても、教員がどう表現するかを聴いている。余裕のなせる技である。
また、どうしてもその話を今したいからそれを話す、などの他の理由もありうる。
最後のケースはめちゃくちゃ主体性があるとも言える。自覚的かどうかは別にして、見方によっては、『学校用語辞典』見出し語「私語」の項目の思想に追いついている。
教員が注目するべきは、授業がわからなくて、あるいは集中力が持続しなくて別の話をしてしまうケースである。
それに対して「うるさい」と叱るのは教育の敗北である。
現実にはいったん黙らせる手段を何かとることは仕方ない時もあるが、少なくとも「教育の敗北」は意識している方がいいと思う。
さて、話しかけられた子の方はどうだろう。
それはわからない。
自分もわからず退屈していたのでちょうどよかったかもしれない。
集中して聴いていたかったのに迷惑だったかもしれない。
しかし、この歌ではその子も「笑ってくれた」。
「くれた」という表現に微妙に方向性がある。
その子も私の授業に関係ない話につきあって「くれた」。
それは嬉しいことではある。
しかし、授業はその間にも進行していく。
わからないままに進行していき、ますます「わからない」の沼にはまっていく。
しかも、友達を巻き込んでいる。
それを「不安だった」と自覚している子は自己省察性が高い。
そう自覚している子はいるかもしれないが、たぶん少ないだろう。
この歌は教員が作った。
その時、本当は不安ではないかというのは教員目線だ。
いや、もっと無自覚な教員は「うるさい」としか思わない。
「本当は不安ではないか」というのは、学歴社会に否応なく巻き込まれている子どもの深層にフォーカスしている教員による「教員目線」なのだ。
歌を聴いて、そうだ、本当は不安だと意識した子はこの歌詞を聴き取ったことになる。
だが、そんなの国語の授業よりもっと難しい国語の時間ではないかと思われてしまうかもしれない。
教科書はわからないが、その「不安」という言葉がなぜここに置かれているかということは、直感的にでもわかる子がいたとしたら、その子に対しては、この歌詞に関する国語の授業は成功している。

次。

恋したり 別れたり それでも友達はずっと

そばにいて支えてくれた いつもありがとう

ある時、教室に行くと、黒板に大きなハートと相合い傘が描いてあり、クラスで有名なカップルの名前と一ヶ月おめでとうという文字が書いてあった。
彼らは付き合いはじめて一ヶ月のカップルなのだ。
中学生のカップルの一ヶ月はとても長い。
一ヶ月カップルで居続けたということは小さな偉業だ。三ヶ月、半年となればもっと。
一年付き合い続けた中学生のカップルは寡聞にしてあまり知らない。
大人もそうかもしれないが、恋愛は友人より熱く濃くそして不安定だ。
子どもによっては、彼(または彼女)と別れ、次の彼(彼女)と付き合い、その彼(彼女)とも別れるまでの間ずっと別の男(女)友達とは友達で居続けることもある。

恋したり 別れたり それでも友達はずっと

そばにいて支えてくれた いつもありがとう

とは、そんな彼らの日常の中で理解されるような歌詞であり、大人には少しわかりにくい。
これがよくわかる関係性を生きている大人もいるかもしれないが。

2番も解説したいところだけ解説する。

未来が見えてこなくて はしゃいでごまかしてた

中三年生は進路選択を迫られている。
志望校を決めなくてはならないが、親や自分の希望について、学校や塾で変更を勧められることもある。
自分はそれでもいいと思っても、親が「絶対にどこどこでないとダメだ」と迫ることもある。
「さぼりたいから、そんなことを言うのだろう。がんばれ」と詰め寄る親もいる。
「うちはお金がないから、私立は絶対ダメです」と言っている家庭の子どもの成績が校区の公立高校のどこに入学するにも及ばない子もいる。
私立も含め、高校と呼ばれる学校に行くことが絶望的な場合もある。

参考

解説長いわ!
と怒り始めている人がいるかもしれない。
しかし「未来が見えてこなくて」という歌詞には、31年間の教員生活で出会った子どもたちすべての進路選択のプロセスが走馬燈のように駆け巡る。

公立しか行かせないと親に言われた子どもの私立受験のとき「併願だと落ちます。専願だと受かります」と綿密な資料から言っているのに、親が「併願で挑戦させます」と言い切ったことがあった。(私立専願で合格すると必ず行かねばならず、公立は受験できない。)
はしゃいでごまかす子もよくいるが、彼の場合は父親の前で強がって「絶対受かったるわい」と「凄んだ」。そうするほかの選択肢がなかった、その態度を取って見せた気持ちは痛いほどわかる。
彼は私立併願に落ちた。
その時その私立高校から連絡をもらった。
「今すぐ専願に変更し、明日入学金を払い、公立高校を受けないなら、合格に変更します」
私はそのままを親に話し、本人と両親でよく話し合ってくださいと言った。
夜、電話がかかってきて、親が専願に変更したいと言った。
「しかし、明日までに入学金が工面できない」という。
私は進路指導の先生に電話した。
「担任が貸したれ」彼は言った。
「返ってきますかね」
「そういうことは何回もあった。殆ど返ってきたが返ってこなかったこともある」
「そうですよね」
「だけど、あいつは公立には受かれへんで」
「わかりました」
私は入学金を貸した。彼は私立高校に入学した。一週間もせぬうちにお金は返ってきた。

数年後、その彼に偶然、町中で会ったことがあった。
僕の行ったことのないヘアカット店の中から彼は飛び出してきて「先生!」と呼んだ。
「オレ今ここで働いてんねん」
彼は胸を張るように言った。
あの時の成り行きやお金の話を持ち出して礼を言うようなことはしなかった。だが、「オレ今ここで働いてんねん」と言ったときの目の色が、すべてを語ってくれているように見えた。
「そうか、がんばってんねんな」と私は言った。

見えない未来、両親の期待と現実の板挟み、自分は頭が悪いんだという苦悩。
見えてこない未来の中で、いたたまれない気持ちの中、凄む子もいるし、はしゃぐ子もいる。
ごまかしてはしゃいでいる子と、ちゃんと授業を聴きたい子でクラスは空中分解しかける。
修学旅行や文化祭ではあんなに一体感を共有したのに。

夢見たり

実はそれは非現実的なんだ、こうしたらどうか。教員は言わざるをえない。

落ち込んだり

現実にぶつかって自分を見失い、ともすると生きていることの意味すら感じなくなってくる。

それでも友達はずっと 責めもせずわかってくれた

「バカなこと言うな、無駄な夢を見るな」とも言わない。
「絶対にこうするべきだ、がんばれ」と言うのでもない。
ただ聴いてくれ、置かれた立場や気持ちをわかってくれる。
同じ一五の春を迎える者どうしだからこそ、教員にも親にもできないことをしてくれるのだ。

いつもありがとう






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