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アミタの観た夢(3)

 海に棲む魚にとっては大気は窒息死を意味する。胎児はその死の世界に頭の先を覗かせていた。わずかに生え始めた頭髪が血にまみれ、膣口の出口が開くたびに空気に触れてその頭頂だけが乾いた血糊に変化し始めている。

 何度目かの収縮の果てに胎児はついに首を死の世界に突き出した。白いビニール手袋をはめた女性医師の手がその頭を鷲づかみにし、強引に引きずり出す。母親は遠吠えのような声を上げた。だがまだ未発達な肩の部分がずるりと抜け出すと、これまでの痛みを伴う長いいきみなど嘘のように、胎児の体は血の海を滑るようにズルズルと引きずり出された。

 胎児は観念して死を受け入れた。羊水の中に揺蕩う至福の生が終わりを告げて、死の世界に釣り上げられたことを受け入れる以外に彼女は何の選択肢もなかった。
彼女? そうあらかじめ超音波写真で予告されていたとおり、胎児の生はFEMALEであった。母親の女性ホルモンの影響で陰部は花が爛れたように外に剥き出しになり、女児であることを主張している。

 医師の手は白いリネンの上で、首に巻き付いた臍の緒を急いでほどいた。解ききっても泣き出さない。ここでは肺呼吸をすることが新しい「しきたり」であることにまだ気がついていない。誕生をむしろ死と感受し、あきらめ果てたようにぐったりしている。その肺の中には飲み込んだ羊水が詰まっていてそれもまた新しい世界での「しきたり」を邪魔している。

 医師は乱暴とも思える仕草で新生児を逆さづりにし、背中を叩いた。変化は起こらない。呼吸の途絶えているこの一分一秒がシリアスな意味を帯びていた。酸素欠乏によって、脳細胞は一刻の猶予もなく、崩壊し始める。

 医師の新生児の背中を打つ手が徐々に激しくなる。もちろん打つことにもそれなりのリスクがあり、力任せというわけにはいかない。絶妙のバランスを探りながら、医師が懸命に新生児の背中を打つ。新しい世界での「目覚め」を呼びかけているのだ。

 げぼっと新生児が液体を口から吐き出した。リネンの上にぬめった液体が染みになって広がる。一瞬の静寂。だが、次の瞬間にはか細い声で新生児は泣き出した。

 「おお。よしよし」

 言いながら医師は新生児を胸に抱く。左手で新生児を胸にかかえたまま、産湯に片手をつけて温度を確かめ、ゆっくりとかき回すと、新生児をつけ、血糊を洗い流す。湯につかりながら、新生児はこちら側の世界にやってきてから初めて、微かな笑みを浮かべた。

 看護師がキャスターで運んできた保育器の蓋を開けた。医師はタオルでくるんで産湯をふきとった新生児を両手で神への捧げ物のように運ぶと、保育器の中にそっと横たえ、プラスチックの蓋を下ろした。シューという音と共に新鮮な酸素が保育器の中に満ち始める。

 混沌とした無意識の知覚の中で、新生児はエデンの園は追い払われたものの、かといってここがその対極の地獄というわけではないことを直感していた。気体としての酸素というまったく新しい安らぎが肺の中に満ち渡り、血流に乗ってゆっくりと全身を経巡る。

 それはまもなく脳血流関門を越え、壊死し始めていた脳細胞に天上の賛美歌を届ける。


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