この世に投げ返されて ~臨死体験と生きていることの奇跡~ (11)
心室細動による心肺停止と昏睡から10日後、意識を回復し、自発呼吸が再開したこと自体が奇跡だ。そのように私は言われていました。通常は脳細胞がこれだけの時間、低酸素状態にさらされると、もっと激しく破壊されてしまい、死亡に到る。意識の回復など不可能だというのです。
CTやMRIによる画像診断でも、脳細胞の破壊は殆ど映らないほど軽微だと言われました。救急搬送後の脳の低温療法が功を奏したのだということになりました。しかし、私は少しずつ動き始めた頭で、それは心肺停止時間にすでに破壊された脳がそれ以上破壊されないように保護するための医学的処置ではないのか?と思いました。
最初の心肺停止時間に、何故、脳細胞が殆ど保持されたのかは、依然として謎のままではないかと思いました。(これについて後に私は低酸素状態における脳内の松果体のはたらきがどのようにして脳細胞を保護し、同時に臨死体験をさせるかについての、ある仮説を見つけることになるので、後述します。)
もうひとつ医者が突き止めることができなかったのは、なぜ心室細動が起こったか?でした。様々な検査の結果、心臓やその周辺の血管などに、それを起こすに至るような病変がなんら見つからなかったそうです。
そのため私は「特殊型心室細動」という病名をもらいました。特殊型というのは、原因が特定できないときに使う言葉だと主治医は私に教えてくれました。
まるでこの心肺停止と蘇生は、私に臨死体験をさせるためだけに起こったかのような不思議な感覚に私は見舞われたものです。
意識回復直後の私は朦朧とした意識の中で様々な管につながれて、常時、身体をびくびく痙攣させていました。食事は摂ることができず、点滴だけが栄養源でした。
これ以上の回復は望めず、一生、ベッドに縛られたままなのかもしれません。
しかし、私には不思議に絶望感がありませんでした。小学生のとき、体育館で見た筋ジストロフィーに冒された少女の映画が脳裏に蘇りました。筋肉細胞の異変のために殆ど動けなくなって亡くなっていく少女の姿を見たとき、誰がそのなるのかはわからないと聞いて、私はとても怖ろしかったものです。幼い私にとってそれは病気の中で最も怖ろしい「病気の王様」になってしまいました。人生というものは、いつ筋ジストロフィーになるかわからない、いつ死んでしまうかわからない。そう思って生きていくしかないものだと思い定めました。
また友人の親戚にはALS(神経系の病で、首から下の身体が殆ど動かなくなる)の患者さんがいました。講演活動で、私の居住地の近辺に来たその方に私はお会いしたことがありました。彼は瞼を動かして文字盤の位置を指示します。熟練した介助者がそれを読み取り、彼の言葉を伝えます。彼はそうやって講演活動を続けていました。そのような状態で前向きに生きている自分の姿勢、どのような障碍があっても生きる権利などを広めるための講演活動であったと理解しています。
彼の親戚であった友人の伝手で、私は控室に案内され、寝台の上の彼に対面しました。私は学校で先生をしていて、様々な障碍のある子の支援もしてきたと自己紹介しました。その時点ですでに私にはいくつかの著書がありましたが、中では一番親しみやすい絵本『ええぞ、カルロス』を私は彼に進呈しました。
彼は瞳と瞼をわずかに動かしました。頬は殆ど動いていなかったように記憶しています。しかし、それだけで私は彼が「ありがとう」と言って微笑んだのがわかりました。
後に彼はれいわ新選組から国会議員に立候補して、ALS患者で最初の国会議員になりました。世間では彼に議員として何ができるのか、彼を擁立したれいわ新選組はおかしいのではないかという批判もありました。しかし、彼は頭脳明晰であり、自らの会社も経営しています。そして、殆ど動けない状態という、世の中の底のようなところから世界を見つめ、そこから見たときの自分の意見を持っています。彼が国会議員になったことには、大きな意義があると私は思いました。
それらの身動きが不自由な人たちや、障碍があった生徒たちの姿、笑顔や泣き顔、周囲の子たちのいじめも優しいふるまいも、すべてが走馬灯のように私の脳裏を駆け巡りました。ベッド上で私はぶるぶると痙攣しながら、どこまで回復するかはわからないけど、死ぬわけにはいかない。それだけははっきりしていると考えていました。
自分には、生のある世界に戻ってきたからには、やりたいこともやらなければならないこともある。そう考えると胸に温かいエネルギーが満ち渡るようでした。
いざ、自分がそのような状態に置かれたときに、何を考え、どう生きるか。そのためにこそ、これまでの人生で、様々な病や、障碍のある子たちに出会ってきたのかもしれないという思いに打たれました。
私が援助してきたつもりだった障碍のあるかつての生徒たちの全員が、今、私を支えていました。
「どんな状態であっても、生きることに意義があると教えてくれたのは、先生、あなたでしょう。さあ、先生。その通りに生きている姿を今度は、あなたが私たちに見せてください」
脳裏に巡る彼らの笑顔は、私にそう言っているようでした。
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