赤松利市『らんちう』

赤松利市『らんちう』読了。後半の参考人供述から雲ゆきが変わり、事件が違う角度から見えてくるのは、構造としては複雑になり、おもしろい小説にしようとした跡が窺えた。だが、僕が赤松に無意識のうちに求めていたのは、実は貧困層からの単純な告発だったことを思い知った。
自己啓発セミナーは僕も受けたことがあるし、多くの批判を持っている。殺された登のような非人間的な利潤追求に特化した経営も、自己啓発セミナー会社もそれぞれをこの小説は告発していると読むことができたが、屈折構造の分、各告発はそれ自体としては弱まった気がした。しかし、複雑な読後感を残すことについては成功だろう。
しかし、僕は溜飲が下がりきらない読後感に不満があるのだと思った。
絡みあう関係の中で、誰もが、自分の都合で物を見て行動している。それを描いて、図式的な勧善懲悪に陥らないのを描いたのは成功なのに、どっちももっとコテンパンにして欲しかった思いがくすぶるのだ。
僕が同著者の作品を読むのは『下級国民A』に続いて2冊目だが、エッセイ『A』には文学的には文体、構成ともに難を感じつつも、社会的視点が参考になった。小説『らんちう』は文学としてはもっとよくできている。
しかし、喉がつかえた感じが残って、視野の変革がない。皮肉な用語を用いればセミナーでいう「突破」がないということになるか。それはよいことかもしれないが、どんな読み物にもどこかで「Ah!Hah!」」を求めてしまっている僕は実はセミナーの類は近親憎悪しているだけかもしれない。
ところで、読み始めたとき、桐野夏生の匂いというようなことを言ったっけ。思うに、単純な告発ではない、小説という文学の形であっても、自分は桐野にはいつも「Ah!Hah!」という衝撃を受けている気がした。それはたぶん死生観、社会観の練られ方によるものではないかと思った。

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