この世に投げ返されて (21) ~臨死体験と生きていることの奇跡~
(21)
私は住民票をまだ以前のN市に残していました。既に話しましたが、医者の勧めに従って介護認定を申請するとN市から要支援が認定されました。
ところが、その認定を受けたことによって、現居住地であるH市の福祉サービスが受けられなくなったのです。
介護保険優先の原則というらしいです。具体的には、それまでできていた精神障碍のガイドヘルパーに車椅子を押してもらっての外出ができなくなりました。
私はN市に介護保険棄てますと電話しましたが、一度認定されたものは取り消せないと言われました。
「それならば、これを取ることによって、障碍福祉サービスが受けられなくなることについて事前によく説明するべきではなかったですか」
そう言っても、取り合ってもらえません。
介護保険を勧めた開業医にも相談の電話をしましたが、「あなたの診察は終了しました」と宣告されました。なんという不親切な世の中なのでしょうか。
この件では私は福祉オンブスパーソンへの相談などありとあらゆる手段を使って、打開案を探り続けました。ところが、どの機関も、介護保険は破棄できませんという結論を出して終わりです。
しかし、私は毎日のようにずっと介護認定破棄の要請を続けました。障碍者への説明不足について、H市とN市で協議してほしいとも言いました。
何ヵ月か、かかったのですが、思わぬところから「解決」が舞い降りてきました。N市が介護認定は誤りであったと言い出したのです。
認定の原因として医師の書類にあった「脳血管障害」というのは、心室細動による低酸素脳症後遺症、さらにはその結果としての高次脳機能障碍には当てはまらないというのです。ここに書類上のミスがあったので、この介護認定自体がミスであったと言い出したのです。
何重にもいいかげんなことをしてくれたなと思いました。このミスのために介護認定をしていた間、障碍福祉サービスを受けられなかった私は、府立急性期・総合医療センターに3日間の知能テスト・心理テストを受診に行った際、ヘルパーを使えず、自宅からタクシーで行き、ホテルに二泊したことは前述しました。毎朝ホテルからタクシーで病院に行き、最後はまたタクシーで自宅に帰ったのです。
その手間や費用に関する責任も、N市はとってくれませんでした。
しかし、とにかく介護認定が取り消されたので、私はH市の障碍福祉サービスを受けることを再開できました。住民票もH市に移し、身体障碍者手帳を取得する動きも始めました。
急性期・総合医療センターの主治医に相談すると、彼は
「高次脳機能障碍であるから精神障碍手帳も取得できる。が、あなたの実態にとってあまり有用でない。むしろ身体障碍者手帳が必要である」と言いました。
「取ろうと思えば両方取ることも可能だが、精神障碍者手帳はあまり役に立たないでしょう」と言われました。
「精神障碍者手帳もあっていいと思うのですが、取得した場合、あってはならない差別がある場合も生じるのが現実ですか?」と私は尋ねました。
教員を完全に退職してしまうかには、まだ選択の可能性を残していたので、担任が精神障碍であるとなると、保護者はどう感じるかな?などと想像してしまったのです。
主治医はしばらく宙を見つめたあと、視線を戻すと私の言葉をそのまま使って「あってはならない差別」が世の中にないとは言い切れないと言いました。
とにかく、必要性を感じたときにいつでも精神障碍者手帳は取得できる。まず、現実に役立つ場面が多い「身体障碍手帳」を取得しましょうということになりました。
W医師によると、高次脳機能障碍の結果として、あなたの場合は運動機能に障碍が出て、現に身体が不自由であるから「体幹障碍」という診断書を書ける。それで身体障碍者手帳を申請してください。ということでした。
こうして私は「あなたの診断書では精神障碍者手帳になる」と身体障碍者であると主張する私を撥ねつけていたH市に身体障碍手帳を申請しました。
障碍者手帳というのは市が府に上申し、府が認可するものらしいです。申請してからまた何ヵ月もかかりましたが、私は「身体障碍者手帳3級 運輸一種」というのを取得しました。
こうしてひとつひとつ障碍者としての権利を行使していった道のりを解説していくと話は際限なく続いていくでしょう。それはもうひとつの長い物語となり、一冊の本になる分量がありそうです。
しかし、そのことにどこまでも筆数を費やすのは私の本意ではありません。
もっとも「この世に投げ返されて」私が為すことになっていた営みの中には、障碍者としての自分の権利を獲得したり、この社会の中での様々な弱者の権利を拡充していくことも含まれていました。その自覚は嫌が応にも私に生じつつありました。
ただ「この世に投げ返され」た意味はそれに尽きるわけではありません。
むしろ、そのような「生きる権利」の基盤の上に様々な表現活動や旅を続けていきたい。私は強くそう感じていました。
学校の教員を正式に辞めるかどうか。そのことには長い逡巡の時期がありました。
私が倒れてから一年近く経った冬のこと。私が所属していた学年の教員仲間から連絡があり、「今年も日本海に蟹三昧の旅行をしようかと計画している。参加しないか。もちろん、皆で車椅子や身体の援助をするから、そこのところは心配いらない」と誘われました。
長い間、旅行もせずに、住居、病院、市役所などを行き来し、新しい生活を軌道に乗せるために奔走していた私は安心できる仲間と旅に出られるのが嬉しかったので、「行く行く」と返事しました。
その旅の帰りの車中だったように記憶しているのですが、学校でも信頼していた年配の先生が「今回の旅行で思ったけど、長澤さんは意識もしっかりしていて、話すことも明瞭だし、授業も十分できそうだ。車椅子で階段は昇り降りできないけど、担当の国語の教室を一階に設けてもらうなどして、皆も援助すれば職場復帰は可能ではないか」と言い出しました。
「冷たい雰囲気の学校だったら戻るのも気苦労が絶えないだろうけど、今のうちの学校の雰囲気なら、皆が『お帰りなさい』と温かく迎えるメンバーだと言えると思う」とも言ってくれました。
昨年、二月下旬という多忙な時期に突然、私が倒れて、担任の交代、教科担当の補填教員が来るまでの穴埋めなどてんやわんやだったことは、容易に想像できました。
ほかの教員が休みなしの部活動指導などで過労であったところ、炎天下の試合を監督中に脳溢血で倒れた時も、学校側に残された側はどんな事態に見舞われたか、体で知っていました。教育委員会の教員補填などの動きはとても鈍いし、現場は一丸となって相互にカバーしあって乗り切るしかないのです。
部活動で体に無理を続けていたその先生とは違って、私は遊びに行ったライブ会場で倒れただけでした。
その時、親睦旅行帰りの車に乗っていたのは、私の突然の入院を受けて、急遽、皆で協力して対処した先生たちです。ボランティアで自分の勤務を増やして学校現場を支えた仲間たちです。彼らが「お帰りなさいというから、戻ってこいよ」と言っているのです。
「ありがとう。体の調子と相談しながら決めますね」
私はそう答えました。国道沿いに戻ってきた車は私たちのH市に差し掛かっていました。夕陽が沈みかけていて、街全体を真っ赤に染めていました。