先祖供養はなぜ間違いか(1)

 先祖供養は必要ないというと、だが確かに先祖あっての自分ではないか、そのことに感謝しないのかと返ってくる場合がある。 
 以下、私が先祖供養ははっきりと誤りであると考える理由を述べよう。
 まず、先祖代々という言葉に大きな問題がある。この言葉は、過去に向かって辿られる一本の線を連想させる。多くの場合、男系長子を辿る線である。
 しかし、私たちの生命は男女のカップルによって生み出されるものである。その男女の数は、父母の代で二人、祖父母の代で四人、以下ニの累乗として限りなく増えていく。
 遡るほどに先祖の数は数えきれぬ数になる。それを先祖累代と呼ぶべきだと言った人もいる。その際にイメージされるのは、一本の線ではなく、遡るほどに広がるピラミッドのような形である。
 そこに無理やりに一本の線を引き、万世一系のごときファンタジーを描くことを、広い意味で「天皇制」と名づけることができる。家制度は、天皇制の小さな相似形であり、ファンタジーである。
 以上は、遺伝子の伝達の上から見た場合でも事実はこうだということだ。しかし、私たちの先祖は、生きている間、ありとあらゆる命をいただくことで身体を形づくってきた。ありとあらゆる経験によって心を培ってきた。その無限の網の目の全体が今の私を成立させているのである。
 これを親鸞は歎異抄5条でこう言う。
 「親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一辺にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情(うじょう)はみなもうて世々生々(せせしょうじょう)の父母・兄弟なり。」
 その私の超簡単訳はこうである。
 「親鸞は亡くなった父母の供養のために念仏を唱えたことは今までに一回もありません。というのも、生きとし生けるものはすべて、生まれては死に、死んでは生まれ、連綿として続いていく地球生命体としての父母兄弟であります」(拙著『超簡単訳 歎異抄・般若心経』)
 つまり私たちはその地球生命体全体の網の目の中の存在なのである。その中に無理やりに恣意的な線を引いて「先祖」の「系譜」と名付け、先祖代々を供養するというのは、悪い意味で「家制度」「家父長制」などと呼ばれているものの特徴である。そしてそのような恣意的な万世一系神話の頂点にあるのが、「天皇制」である。
 そしてそのようなファンタジーを草の根で支えているのが、寺院の僧侶が全国の津々浦々で執り行っている「先祖供養」であるというのが、私の考えである。(つづく)

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