見出し画像

障碍と無碍

 (仏教を勉強したことのある私は)バリアフリーという言葉は、無碍、サンスクリット語のamitta、漢訳(音訳)経典の阿弥陀を英語にしたものではなく、福祉用語としてまったく別のルーツを持つものであることについて、改めて意識しようと思った。バリアフリーを漢訳仏典の無碍のことだと思うのは、この英語からの外来語にサービスしすぎだ。
 無碍というのはすべてに染み渡るように浸透して何物も妨げにならない融通無碍の光やエネルギーのことを指す言葉だ。(臨死体験はまさしくそういう体験だった。)
 バリアフリーはそれと違って、ある場所に壁がある。たとえば歩道に段差がある。それをスロープにするのが、バリアフリーにするという建築思想であって、すべてに染み渡るように無碍にいきわたる光の話というのとは根本的に異なる。
 だからそれは、あるところに明らかな壁があり、それを破るときには、有効な言葉だが、すべてがグラデーションの中で多様で融通無碍であることを表しているわけではないということを思想的にはっきりさせておくことがある。
 だからそれはたとえば建築思想としては、バリアフリー度が遅れている分野や国、街において、有効だが、人間関係を表す言葉としては、明かな壁や差別を取り除く瞬間にだけ、強度の有効性を持つものにすぎない。
 すでに無差別思想が発達した時点で考えると、バリアフリーという言葉がいったんバリアを想定している点で、むしろ後退してから、打ち破るようなところがある。
 ではどのような言葉がいいかというと、インクルージョン(包括)ではないかと思う。
 たとえば発達障害においてボーダーと言われるような人の場合、インクルージョンだとグラデーションのどこにいても包括されることには違いないが、バリアフリーだとバリアはいったいどことどこの間にあるのか、話がややこしい。境界などどこにつくってもややこしいだけの話だし、いったいどのような座標軸で考察しているのかによっても違うし、いちいち考えずに、「すべてを超え、すべてを抱きしめたい」(拙著「魂の螺旋ダンス」帯)でいいのだ。
 無碍はどちらかというと、バリアフリーよりも、インクルージョンに近い。(だが、インクルージョンを漢訳仏典の言葉にすると、一番近いのは摂取不捨になるだろう。)
 簡単に整理すると、建築思想などにおいては今後もバリアフリーという言葉は、有効で重要であり、ヨーロッパに比べて遅れている日本はちゃっちゃっと何とかしてほしい。しかし、人間関係においてはバリアフリーという言葉はもはやすでに後退思想というようなものであり、インクルージョンで十分である。
 さらには建築思想、生活環境デザインにおいても、バリアフリーはさらにユニバーサルデザインに進化していくところなのであって、もはや全体的にバリアフリーという言葉は古びつつあると言えるのではないだろうか。

もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。