完全に準備されているvsめちゃくちゃ融通が利く
ヒフミヨイマワリは、
完全に準備されたお祭りではなく、
めちゃくちゃ融通の利くお祭りだった。
写真(1)のスロープは、屋内から外に出る場所に設置されたもの。
実は初め、このスロープはなかった。
たまに勢いで成功するほかは、ここの敷居でいつも僕の車椅子は止まった。
すると居合わせた人が「手伝いましょうか」と言って手伝ってくれた。
だから「すぐ人が駆け寄ってくれるから、これでいいか」と思っていた。
それが一日目の前半。
一日目の後半には写真のようにスロープが付いていた。
誰が付けたのか。
僕はスタッフとわかっている人に言いに行ったわけではない。
完全バリアフリーではなく、手伝ってもらってバリアフリーも、また素晴らしやと考えていたのだ。
だが、僕を手伝った数名のうちの誰かが、自分でつけてくれたか、誰か得意な人に言ってくれて、その誰かがつけてくれたのだ。
言っておいたよとも、つけといたよとも誰も声をかけてこなかったから、誰がしてくれたのか、わからない。
どこかの誰かが黙ってしてくれて、したよとも言わないのだ。
泣けるではないか。
写真(2)は食べ物横丁。
初めて見たときは、段がきつい、通りが狭い、いろんなものが通路に置いてある、夕方で薄暗く、人がいっぱいいる。
これは車椅子をあげてもらったらもらったでつっかえて通れないし、一生通れない道に見えた。
途方にくれていると見知らぬ女性がやってきて「大丈夫? 入りますか?」と言った。
「あの、車椅子をあげてもらっても通れないので、手をつないだら少し歩けるので連れていってもらっていいですか」
というと、「はい。どうぞ」と言って、支えようとしてくれた。
「僕は脳の障碍で、支えなくていいんです。ただ手をつないで安心させるだけで」
というと、がっと支えるのはやめて、つないでくれた。
がまだ肘のあたりまで手をあげていて、支えの意識が残っている。
「あの、デートのときの手のつなぎ方です。普通に手を下ろした位置でそっと繋ぐだけです」(比喩があつかましい? しかし、この説明は男性に手をつないでもらうときもしたのと同じ説明)
するとふっとふたりともから力が抜ける。
こうして通りを連れていってもらった。
「あ、ここでコーヒー飲むのでここで、ありがとう」というと「一緒にコーヒー飲む?」「え? はい」「私が払う。コーヒーふたつ」と言って席に並んで飲んだ。指のパワーで目のヒーリングもしてくれた。(コーヒー代は席で渡した。)
この通称「デート歩き」をその通りに行くたびに、男女何人もの人にやってもらった。
ある男性に「手の位置はそこではなく、デートのように」「あ、こう? あ、なるほど」と力がふたりから抜けるのを実感して、車椅子に戻って別れるとき「ありがとうございました」というと、「いや、すばらしい体験をさせてもらいました。こちらこそありがとう」と言っていた。
ふたり同時に、「支える、支えられるの意識から解放」された瞬間に、ただ手をつないでいる状態になり、両方からふっと力が抜ける体験のことだろか。
これは僕が脳の障碍だから成り立つことではあるが、ある意味、「介護の究極」だと言えるかもしれない。
他の男性に初めてそうやって助けてもらったそのときは「ほーほー。なるほど」と言っただけだった。が、別のとき、ほかの人が僕を支えて助けようとしたとき、「いや、大丈夫なんだ。歩けるんだ」「え、そうなんですか?」「うん。もうそういう仲になったから」と言ったので、どういう仲やねん?と笑えた。
写真(3)は最後の朝、同じ食べ物横丁が、無碍の光に満ちて、絶対誰かが助けてくれるからいつでも通れる道に見えたときに撮った写真。
本当に観える世界が全然ちがう感じだった。
このカレー屋の女性は「アイヌモシリ一万年祭でもお見かけしましたよ」と言っていた。
写真(4)は、火の周りのベンチからふと立ち上がり、どこかから、ビニール袋をもってきて、ハサミでゴミを拾いはじめた女性。
ほかには、夜中に何時間も踊っていると、ぽんぽんと肩を叩かれて「飲み物、飲みますか」と女性に言われた。
踊っていると飲み物飲むの忘れて踊り続けるけど、本当は適度に飲んだ方がいい。
スオウが参加している祭りなら、質問するのではなく、いきなり、ちょうど飲み物が要る感じのときに「はい」と言って、ペットボトルをくれる。
しかし、今回、モクさん、スオウは来ていないので、自分でペットボトルを持って、夜中のステージに来るべきだった。
「そうですね。飲んだ方がいいかなあ」
「何がいいですか? 私買ってきますよ」
え、ええええええー。
これでだいたいどんな祭りかわかり、タイトルで僕が言いたいこともわかると思う。
できるだけ準備するのはとてもよいことだし、もちろん、それもしてあるのだが。
「他力本願とは、阿弥陀の本願力に南無することであって、人に頼ることではない」と口をすっぱくして言う僧侶がいるが、そのふたつは実は同じことだということがわかっていないようだ。
その僧侶は直接阿弥陀が歩いてきて、助けてもらったことがあるんだろうか。(心理的にはあるかもだけど。)
そのとき、必要なことをしてくれるのは、人だったり、犬だったり、太陽だったり、植物だったり、たまたまそこにあったものだったりする。
それが、amita 限りなき働き の不二なる展開であり、それはいつも具象物を通してこの世に働く。
具象物抜きの直接の不二の静けさ(働きとはちょっと違う)になるのは、臨死体験中だけです。www
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