念仏の真意 メモ

念仏ということに抵抗ある人は抵抗ある。
それがどうしても必要なの? と。
その気持はよくわかる。
だから、ここを脱神話化しないと普遍的なものにならない。

具体的にいうと念仏とは南無阿弥陀仏と称えることだ。
南無阿弥陀仏とは、
「超簡単訳 歎異抄・般若心経」の「はじめに」で解説しているが、
amita=否定の接頭辞a(un)+mita(mesure)
つまり英語でいうunーmesure(量ることのできない)働きに、namo=任せきるということだ。
だから宇宙の(量りしれない)無限の働きにまかせるということだ。
そう訳した。
そう訳したら、念仏という言葉を忘れてもいいというのが僕の考えだ。
浄土教のお坊さんは反対するかもしれないけど。
南無阿弥陀仏という中国語も忘れてもいい。
「宇宙の無限の働きにまかせる」で十分だ。
どうしても称えたかったら「宇宙の無限のはたらきにまかせます」と称えてもいい。

だけど、もうひとつ肝心なことがある。
歎異鈔で親鸞が言っているのは、
「宇宙の無限の働きにまかせます」と称えたら解放されるということではない。
「宇宙の無限の働きにまかせきる以外に、自我が自我を解放する方法なんてないと思い知って、もう任せきりますと称えようと思うこころが起こったその瞬間に、無限の光に抱擁され、解放が決定する」
ということだ。

それが僕が文筆活動のデビュー作、卒論のリメイクである「念仏もうさんと思ひたつこころ」(暁烏敏賞)で明らかにしたことだ。

だから、念仏も南無阿弥陀仏も忘れてちゃぶらい。

自我が自我を解放することはできないと思い知ったので
宇宙の無限の働きにまかせますと
何の逃げ道もなく決意しきった瞬間に解放は決定します

とぜんぶ現代日本語で理解してください。

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