「倶舎論」をめぐって

第5回 ローゼンベルグ夫人の手紙

 今回も、昔の文章を現代文に直して、紹介しましょう。全く、涙なくしては読めない内容です。ローゼンベルク夫人の手紙はかなり長文ですが、全文を読んでもらうことにします。

拝啓(はいけい)、私の夫ドクトル・ローゼンベルグ教授は1919年の11月26日に、猩(しょう)紅熱(こうねつ)のために、レヴルにて、三十二歳を最後として死亡致しましたので、ここに御通知(ごつうち)いたします。私共の居住していたペテルスブルグの近郊パヴロウスクを西北軍の自衛連隊が占領し、すぐに退却しましたが、夫と私は1919年の10月23日にわずかばかりの手

まわり品を持って30キロメートルを徒歩し、そこからは鉄道にてエストランドに逃れました。私共の心算(こころずもり)にてはフィンランドに行き、そこよりアメリカを経て日本へ向かうはずでしたが、夫はレヴルにて発病いたしました。それほど重態(じゅうたい)ではなかったのに、いちじるしく落胆(らくたん)したため、病臥(びょうが)12日にして永眠(えいみん)いたしました。2年間の辛酸(しんさん)をなめ ようやく待ちこがれた自由の身となった時に、死亡するとは!私共は大いに将来に希望を抱いていました。夫は日本より通信を得るとは全く予想もしていませんでしたが、私は夫の懐(ふところ)に、貴殿(きでん)〔荻原雲来のこと〕に送ろうとして病院で書きかけた書面(しょめん)を見つけました。の書面には、「貴殿の倶舎釈論(くしゃしゃくろん)の梵本(ぼんほん)〔サンスクリット語〕の第二章の写本(しゃほん)を無事に受け取り、かつ、すでに、その一部分を印刷し始めました。第一章は前年すでに完成いたしました。今は共産主義者の天下となり、学術上の著作はとても印刷することは出来ません。すべて真面目な文化的事業は廃(はい)せられて、すべてが次第(しだい)に破壊されています。大学も中学も学術的または文化的な価値を有するものはことごとくこの運命にあってしまいます。」 と書いてありました。夫の学位論文は幸いにして1918年に印刷を終わり、これを保存することが出来ました。それは仏教哲学の問題という題名で、世間の大きな注目を浴び、2か月内に売り切れてしまいました。ロシアの仏教への関心はかくも大なるものです。もちろんロシア語で書き上げましたが、夫はすぐにこれをドイツ語・英語で書こうと考えていました。けれど不幸にしてその志(こころざし)を果たせませんでした。夫の没後(ぼつご)、私は親戚(しんせき)のいるフィンランドに行き、そこで、そのドイツ語訳を始めました。しかし、当地では相談相手になる人もなく、私にとっては困難な仕事です。これにくわえて専門の学術的書物は絶無(ぜつむ)です。必要な品は一切注文して取り寄せねばならないのに、私にはほとんど収入の道がありません。この仕事は私にとっては費用の大きさに閉口(へいこう)いたします。私は目下(もっか)何なりとも適当な職を求めています。まだその口はなく、かつ当地の諸物価は非常に高いのです。夫の書物は大判(おおばん)の紙にて367ページあり19章から成っています。注記(ちゅうき)と引用書目録(もくろく)と索引(さくいん)をつけ、今第4章まで進みました。日本の状態はどうでしょうか、ご連絡下さい。日本は私の生涯中最も幸福な時を過した所で、私の第二の故郷です。おおいに懐(なつか)しく思っております。もし私にお手紙を頂き、貴殿及び御家族の現状を知らせて下さると、非常にうれしく存じます。皆様、恐らく御壮健(ごそうけん)のことと思います。夫の知人や助手の方々はどのように暮されていますか。池田、伊東両氏はどうしていますか。ドクトル渡辺は何をなされているのでしょう。夫が例の新式の大字書の印刷を完成しなかったことは非常に惜しいと存じます。これをどうするか全く予想出来ません。私の唯一の希望は、私講師エリセエフ氏が、どうにかして、ロシアから救い出されて、日本に渡り、夫の事業を継続(けいぞく)してくれることです。しかし、若き妻と二人の幼児(ようじ)とを抱えて この冬の季節に国境を超えることは、困難ですし、実に危険極まることです。その上、エリセエフ氏は近頃の険悪なる時期に当たって、健康を害しました。この冬にペテレスブルグにて、生活を営むのは大変な難事(なんじ)です。暖(だん)を取る材料もなく、しかも、死亡するものは非常に多いのです。栄養不足のため人はちょっとした病に倒れ、今後どうなるのか見通しは立てがたいのです。貴(き)下(か)の返事を待ちつゝ、貴殿ならびに友人諸氏へ心からの御挨拶(ごあいさつ)をと、筆を取りました。

1920年2月29日

フインランド、ギボルグ、グラムンケガタン第五番

   エルフリーデ、ロゼンベルグ(『宗教研究』第三年 第二十号、1920(大正9年)pp.112-113、ルビ・〔 〕内は私が補足しました)

切々たる心情が現れている手紙です。未亡人は、この難局(なんきょく)を乗り越え、夫の博士論文『仏教哲学の諸問題』のドイツ語訳を成し遂げました。ローゼンベルグの業績は、未亡人の献身(けんしん)がなければ、こんなに人々の注目を集めなかったでしょう。夫の死後30年余りを経て、夫人もその生涯を終えます。一編のラブストーリー映画を見ているようですが、実話です。『倶舎論』という一般的には知られていない文献にも、このようなドラマがあることをわかってもらえば、大変うれしく存じます。次回は、ローゼンベルグの生前(せいぜん)に戻って、その周辺のことに触れたいと思います。

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