仏教余話

その101
さて、ついでに、極最近の唯識研究の動向にも、少しだけ触れておこう。日本印度学仏教学会という学会を知っているだろうか?インド思想や仏教を研究する専門家で構成される、日本最大の学会である。毎年、2日間、研究発表の機会があり、希望者は、その発表内容を学会誌に掲載することが可能である。最新の研究論文が、数多く載っていて、新しい情報をつかむには、うってつけの雑誌である。誌名を『印度学仏教学研究』という。その最新号から、唯識研究を紹介してみよう。合田秀行氏は、以下のようにいう。
 筆者が敢えて表題を初期瑜伽行派としたのは、一般的に唯識派あるいは唯識思想という呼称が用いられているが、この学派の特徴は瑜伽行(yogacara)という釈尊以来の修道論を部派仏教が継承し、さらにそれを大乗的に発展させたことが主たる存在意義であると考えるからである。もとより「唯識(vijnaptimatra)」という概念の究明が、極めて重要であることは自明であるが、この「唯識」あるいは「唯識無境」という概念も、あくまで修道論の過程の中でこそ、その真意が読み解かれるべきことは言を俟たない。そのような視点を欠いた西洋哲学的な存在論ないし認識論的な文脈の地平において、この「唯識無境」などの概念を欠陥であると判断する動向には、違和感を抱かざるを得ない。(合田秀行「初期瑜伽行派の形成過程に関する一考察―アサンガ論書を軸としてー」『印度学仏教学研究』60-1,2011,p.444)
ここには、従来のアプローチへの明確な疑義が表明されている。しかし、合田氏の疑義に
は、同意しかねる部分もある。氏の言い方では、ブッダ自体が、瑜伽(=ヨーガ)をさも、尊んだとの印象を受けるが、先に見た水野弘元博士の釈尊伝では、瑜伽に対して、ブッダは、懐疑的ではなかったか?私自身、瑜伽〔=ヨーガ、禅〕に対しては、かなり否定的な見解を示してきた。その理由の1つは、一般的に、「ヨーガ礼賛」の傾向が感じら、そのせいで、神秘的な面が持て囃され、合理的な思考がないがしろにされはしないか、と危惧し
たからである。合田氏のケースは、この合理的思考偏重を危惧したのである。どっちにしろ、こちらの偏見や思い込みで、インド思想を研究しても、真相はつかめない、ということを、いっているのだが、学会においては、どうしても、前に有力であった説の攻撃という形を取る。少し前に見た宇井伯寿博士の唯識理解にしても然り、有力であった法相宗批判という形で、論が展開されていた。インド思想は奥が深いのである。恐らく、その奥深
さには、最近ようやく、世間も気付きだした。インターネットの普及が、その要因であろう。ヴァーチャルな世界が、現実世界にも引けを取らないほどのものであることを認識しだして、ヴァーチャルの極まりとも思えるヨーガの世界は、俄かに、注目を浴び始めたのである。それは、今まで神秘の一言で片付けられていたが、とてつもなく、合理的な側面を有している。インターネットが、合理的思考の代表である数学の所産であることを思えば、ヨーガだって、合理的にアプローチ可能なのではないか。そういった発想が、確かに、広がってきている気がする。例えば、先年話題を呼んだ映画「アバター」などは、その発想の下に製作されたはずである。「アバター」とは、サンスクリット語のアバターラ(avatara)の略である。意味は「降臨」「権化」「分身」である。ヴァーチャル用語にもなっている。利に聡いアメリカ人は、ヴァーチャルな世界の可能性を感じ取り、古来からヴァーチャルな世界を得意とするインドに目を付けたのである。
 

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