世親とサーンキヤ

以上、『真理綱要』及び「難語釈」におけるサーンキヤ思想読解に関して、
実際に、読解に入る前に必要と思われる予備知識を示してみた。
サーンキヤという語の意味合いも伝えておきたい。日本の代表的研究者、今西順吉氏は、以下のようにいう。
 サーンキヤ(Samkhya)という名称の意味から検討しよう。サーンキヤはサンキヤー(samkhya)から派生した言葉であり、後者のもっとも普通に用いられる意味は「数」(名詞)、「数える」(動詞)である。…もう一つの方向として、同じく「数」「数える」ではあっても、数学とは別の意味の用法が存在する。「牛飼い」のことを「牛を数える者」(go-samkhya)と呼ぶが、それは数えることが「監視」する意味に転じているからである。「何らかの目的を目指して、悪徳・美徳を量ることがsamkhyaである」というとき、ここでは「考察」の意味になっている。数の中に数えるということは、単に数量的な計数のほかに、一群のものを同じ部類に類別する、という意味をもちうる。現実の事象は複雑多岐にわたるものであるから、これを類別するということは、幾つかの部類のもとに括ることである。(例えば仏教の五蘊、識身の蘊(skandha)、身(kaya)などは「集合」の概念を表している。ウパニッシャド、仏教、ジャイナ教などにはこのような観念が顕著である。)そして、それぞれの部類はそれぞれの名称を有する。そこで、「数える」ということはある部類の名称に括ることである。(今西順吉「サーンキヤ(哲学)とヨーガ(実修)」『岩波講座 東洋思想 第五巻 インド思想 1』1988所収,pp.138-139)
サーンキヤの解明には、実は、幾重にも重なったインド思想を紐解いていく心構えが必要であるが、この度の考察は、極表面的なものにならざるを得ないだろう。それが如何にインド思想の深部に食い込んでいるかは、次の定方晟氏の言葉からも伝わると思う。
 サーンキヤ学派では、ウパニシャドの哲人ウッダーラカの思想を批評的に改革して、唯一なる有の代わりに二つの実在的原理を想定した。(定方晟『インド宇宙論大全』
2011,p.108)
付記 最近の研究として、近藤隼人氏のものがある。近藤氏は、次のように、論を始める。
 古典サーンキヤを代表するヴァールシャガニヤは、知覚(pratyaksa)を「聴覚器官などのvrtti(srotradivrtti)」と定義したことが知られている。さらにその弟子と目されるヴィンドャヴァーシンは、同定義に対しavikalpikaという限定要素を付したとされているが、…(近藤隼人「indriyavrtti―到達作用と感官偏在説の相克―」『印度学仏教学研究』61-2,平成25年、p.815)
また、渡辺俊和氏は、ディグナーガのサーンキヤ批判を論じ、こう結論付けた。
 〔サーンキヤに由来する〕avita論証を論じて、ディグナーガはprasanga論を正式な論証法(sadhana)に改良する可能性を得た。このことが、彼をしてprasanga論を三相(trairupya)の枠組みに取り込むことを可能にしたのである。彼のprasangaに関する見解は、prasanga理論の発展において、ターニングポイントをなした。〔prasangaは〕それまで、対論者の見解を否定する手段と見なされていただけだったのだ。ディグナーガのavita論証の解説を使用することで、バーヴィヴェーカやダルマキールティは、更に、prasanga理論を発達させた。ディグナーガの三相理論が広く受け入れられ、サーンキヤは、インド論理学におけるリーダー的立場をディグナーガとその後継者に譲った。サーンキヤのavita理論批判によりprasanga理論を発展させたとすれば、ディグナーガは、最も巧妙な〔サーンキヤの〕後継者にして、最も手厳しい批判者だといえるだろう。(Dignaga on Avita and Prasanga,Journal of Indian and Buddhist Studies,Vol.61,No.3,2013,p.1234)
賢明なる方なら、仏教の中観派の分派のことが、脳裏に去来するだろう。前にも触れたように、インド仏教はインド思想の坩堝のなかから生まれたのである。

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