Tips of Buddhism

No.7
Tanaka Chigaku(田中智學、1861-1939)was a Japanese Buddhist scholar and preacher of Nichiren Buddhism,orator,writer and ultranationlist propagaidist in Meiji,Taisho and early Showa periods.He is considered to be the father of Nichirenism,the fiercely ultranationalistic blend of Nichiren Buddhism and State Shinto espoused by such figures as Nissho Inoue,Kanji Ishiwara and Ikki Kita.Notably,however,the children’s writer,poet,and rural activist Kenji Miyazawa also idolized Tanaka,and both Miyazawa and Ishiwara joined his flagship organization,the Kokuchukai,in 1920.(from Wikipedia Tanaka Chigaku,2016/05/16)

(訳)
田中智學は、明治・大正・昭和初期における、日本仏教学者、日蓮宗(にちれんしゅう)の提唱者、雄弁家、作家にして超国家主義の伝道者である。日蓮主義の父、日蓮宗と国家(こっか)神道(しんとう)をないまぜにした熱烈な超国家主義者と目された。井上(いのうえ)日召(にっしょう)、石原莞(いしはらかん)爾(じ)、北一輝(きたいっき)等の人物に支持された。注目を引くのは、童話作家、詩人、農本活動家である宮沢賢治も、田中を偶像視していたことである。宮沢と石原の2人は、彼〔田中〕の拠点組織、国柱会(こくちゅうかい)に1920年参加した。

(解説)
日本史で習ったような人物が沢山登場する。簡単に言うと、井上日召や北一輝は、先の大戦前、世上騒然とした中、革命を起こそうとした人たちである。石原莞爾は、陸軍(りくぐん)参謀(さんぼう)で、満州(まんしゅう)事変(じへん)を画策(かくさく)した軍人と言われる。宮沢賢治は説明の必要もないだろう。これらの人物の背後にいたのが、田中(たなか)智(ち)學(がく)である。田中には日蓮宗が影響を与えている。日蓮は、『法華経(ほけきょう)』こそが仏教の根幹(こんかん)と見なした。つまり、田中の思想にも、『法華経』の教えが強く影響しているというわけだ。『華経』に1種の理想(りそう)郷(きょう)を見出したのだろう。
 きな臭い話は一先ず置いて、ここで覚えておいて欲しいことは、割と近い時代の仏教の面白さである。今現在見るような姿の仏教は、ほんの少し前には、全く違った姿をしていた。例えば、明治の廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)に際し、白人仏教徒を招いて、失地回復を図るという飛んでもないことも、実際あった。招かれた人物は、オルコット(Henry Steel Olcotto,1832-1907)という。彼は、「神智学協会」(The Theosophical Society)という心霊主義団体の代表の1人だった。この団体は、今でもインドに現存する。パソコンでアクセスしようと思えば、簡単に出来るだろう。ステファン・プロテロ(Shephen Prothero)著『白い仏教徒』White Buddhistは、この人物の評伝なので、関心のある方は読んで欲しい。忽滑(ぬかり)谷(や)快天(かいてん)の『侍の宗教』も明治の産物である。この著書は、重要なのに、まだ翻訳もない。志のある方は、是非訳に取り組んでもらいたい。また、彼の事績を追えば、宗門全体そして、駒澤大学を巻き込んだ内紛劇がわかったりもする。世に言う「正信(せいしん)論争(ろんそう)」であるが、今では知る人も少ない。
正信論争は、昭和三年に起こった原田(はらだ)祖(そ)岳(がく)(1871-1961)派と忽滑谷快天派を中心とする宗学(しゅうがく)論争(ろんそう)である。『曹洞宗正信論争』の広告文を引用してみよう。
 安心(あんじん)の路頭(ろとう)に迷へる此(こ)の秋憂(ゆう)宗(しゅう)護法(ごほう)の士(し)に此の書を薦(すす)む曩(さき)に忽滑谷快天、原田祖岳兩師(りょうし)によりて、安心論(あんじんろん)の烽火(のろし)一度揚(あ)げらるゝや、轟々(ごうごう)たる輿論(よろん)は沸騰(ふっとう)し遂(つい)に洞門(どうもん)稀有(けう)の大法戦(だいほっせん)は開始された。此の書は是(これ)等(ら)諸師(しょし)の安心論の一切を編纂(へんさん)したものであつて、今や宗門の信仰地を拂(はら)ひ、出家(しゅっけ)在家(ざいけ)共に安心の路頭に迷ふ時、特に此の一書を諸子(しょし)の机邊(きへん)に薦(すす)め各自自由討究と巖正なる批判の資(し)に供せんとするのである。(竹林史博『曹洞宗正信論争〔全〕』平成16年、p.25、『達磨禅』第14巻2号〈昭和4年2月〉の広告と指摘されている。ルビ私、1部表記変更)


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