仏教余話

その161
概説書によく出てくる有相・無相だが、実際のところ、その意味ははっきりしていない。原語のakara(アーカーラ)を相と訳し、それをここでは、形相と呼ぶ。『倶舎論』では、もっぱら「行相」と漢訳されるが、これでは尚更わからない。モニエル・ウイリアムスの『梵英辞典』では、form,figure,shape,stature,appearance,external gesture or aspect of the
body,expression of face(as furnishing a clue to the disposition of mind,p.127)即ち「格好、姿、形、背格好、見かけ、体の外的動作あるいは表情、顔の表情(心の想いを測る手助けとして)」とある。元々はA√kr(to bring near or towards)「引き寄せる」と言う動詞から派生している。モニエルの「顔の表情(心の想いを測る手助けとして)」という記述は示唆的である。つまり、「あるものを通して、見えないものを推し量る」道具がakaraなので
ある。akaraが万人に共通なのかどうかは謎である。例えば、あるものを指して「青い」と万人がいったとしても、個々人の「青」が同じ「青」なのか検証する術はない。ただ、「青」という言葉が同じなだけである。そこでは指示対象が同一であることを確認するに止まる。ディグナーガの求めた共通性も、「青の形相」ではなく、「青とされる指示対象」そして「青という言葉」なのではないだろうか。これは似ているようで、全く異なった立場である。「青の形相」は、知覚の対象であるが、「青とされる指示対象」「青という言葉」は判断・推理の対象である。ディグナーガは、知覚の対象を、そして知覚を、判断・推理より重視したと、される解説が世には多いが、それは恐らく間違いである。「青の形相」に万人の共通性を認めていない、と思われるからである。従って、長々と引用した上記の解説も随分と怪しげなものに変わる。akaraの問題は、重要なソースである『倶舎論』から丁寧に辿ってみないと解決されないと思う。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?