仏教余話

その232
この問題をシチェルバツキーに伝えたのが、他ならぬ、ヴォストリコフなのである。こういわれている。
 章を通常の順序に変えるのか、、伝統的な順序を守っていくのかという議論は、最近、ヴォストリコフ氏により考察された。(F.Th.Scherbatsky,Buddhist Logic,rep.p.39)
また、こういう意見も引用されている。
 ヴォストリコフ氏は、以下のように認めたのである。彼〔ダルマキールティ〕の考えが、後の展開で変わったことで〔章の順序は〕変化した。その変化は宗教的信仰ではなく、方法論においての変化である。(F.Th.Scherbatsky,Buddhist Logic,rep.p.39)
その他に、ヴォストリコフは、チベットの歴史書についての著作も残している。それは英訳されている。(I.Vostorikov,Tibetan Historical Literature,tras.from Russian by H.C.Gupta)以下に、英訳の「序論」を紹介してみよう。
 アンドレイ・イワニヴィッチ・ヴォストリコフ教授は、東洋研究のロシア学者として卓越して著名な1人であった。インドやチベットの歴史・哲学研究に多大な貢献をなした。しかし、急な死が、創造的な学究生活に突然の終わりをもたらした。1931年、ヴォストリコフ教授は、『ダルマキールティの哲学』という著書の出版を目論んでいた。1933年、学士院会員シチェルバツキー、オルデンベルグ、オーバーミラー教授、セミコーヴ氏の協力の下で、カウテリヤの政治・経済論『アルタシャーストラ』をサンスクリット語から翻訳した。 また、その術語辞典も編纂した。1934年、ヴォストリコフは、「世親の論理学書」という論文を公にし、翌年、「世親の論理学」という専門書を完成した。それは、利用可能なあらゆる資料に基づいて、問題をわかりやすく扱っている。1934年には、更に、『インド史季刊誌』Indian Historical Quarterly(Vol.xi,No.1,March 1935)に「ウッディヨータカラのニヤーヤヴァールッティカとダルマキールティのヴァーダニヤーヤ」を載せた。晩年、ヴォストリコフは、古代インドサンスクリット哲学の記念碑的な「時輪」Kalackraの研究と訳に携わっていた。2つの写本とチベット訳から時輪の複合テキストの印刷を準備していた。(写本の1つはロンドンにあり、もう1つは時輪の南版である。後者は、ミナーエフ教授によって、インドから将来された)彼は、それをロシア語訳していたし、注も付けていたが、完成に至らなかった。ヴォストリコフは、チベット研究に大変注目していた。チベット語の学的文法の編纂について研究し、それは、〔死後〕、1941年にシチェルバツキーにより完成した。それにもまして、チベットの歴史文献の問題は、彼にとっては、より引かれるものだった。1934年、「チベット文献一覧」という論文が『ビブリオグラフィヤ・ヴォストカ』Nos.2-4という雑誌で、公刊された。当論文は、ファン・マネン(「チベット書誌学に寄せて」)の論文への批判的分析、チベットの歴史文献への新たで有益な情報を有していた。1936年、この論文は英語で公刊された(「ファン・マネン博士の「チベット書誌学に寄せて」に関する訂正と批判的所見」)『東洋学紀要』Bulletin of the School of Oriental Studies,London,vol.vii,1935,pp.51-76)その時、全世界のチベット学者の熱烈な注目を浴びたのである。ヴォストリコフの残余の著書の中で、言及されるべきものは、「バルグジンスク ブリヤート史」と「オルデンベルグとチベット研究」である。後者は、ロシアのチベット研究史、そしてチベットの写本・木版収集物(世界最大)の情報史を概説したものである。本書『チベットの歴史文献』は、膨大で種々のチベット文献を整理・説明したもので、ヴァストリコフが成し得たものすべての成果である。当時は、それほど研究されていなかったものである。彼は、チベットの干支をヨーロッパの暦に読み替える特殊な一覧表を案出し、この著作に加えてもいる。 
    1958年6月14日   N.P.ヴォストリコフ
(Vostorikov,Tibetan Historical Literature,tras.from Russian by H.C.Gupta,pp.v-vi)
ヴォストリコフの肉親が記したものかもしれない。ローゼンベルグ同様、惜しまれるべき学者であった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?