仏教豆知識

その2
しかし、先にもいったように、感情論に走った個人攻撃ばかりが目に付き、事の真相は見えにくいのです。最も、冷静に論争の実態を伝えるのは、私の見るところ、当時のマスコミの記述です。それを引いて、事の実態を垣間(かいま)見てみましょう。
○   これは一般の宗教界に就(つい)てもいへることであるが、いまや禅宗特に曹洞宗に於(お)ては、たしかに次のような二潮流(ちょうりゅう)が著(いちじる)しく現れている。それはつまり主知主義と主意主義の流れである。前者は何事も頭で解決して行こうとうふのであり、後者は腹でやって行こうとする行き方である。モット明瞭にいふならば、知目(ちもく)と行(ぎょう)足(そく)との流れだといってもよいし、また学校教育と僧堂(そうどう)教育との抗争だともいへる。○その争ひの直接原因となったものは昨年忽滑谷快天氏が『星(せい)華(か)』誌上に発表された宗(しゅう)意(い)安心論(あんじんんろん)であろう。ところで忽滑谷博士の論文に対して耆(き)宿(しゅく)原田祖岳氏である。原田氏は人も知る禅界の老師家(ろうしか)、その論駁(ろんばく)は大いに洞門の人々を震撼(しんかん)せしめた様だ。しかるにその反対論がだいぶんに感情論に走っているといふので、怱滑谷門下では大いに感情を害し、一方忽滑谷説を擁護(ようご)すると共に、一方では又(ま)たコッピドク原田説を非難攻撃したのである。○ところが原田氏及びその門下の方では黙っていず盛んに忽滑谷説を攻撃し、忽滑谷氏は禅宗の本意(ほんい)を誤るどころか、仏法をよく弁(わきま)へぬ外道(げどう)だとまで罵(ののし)っている。かようにして両者は互に論難攻撃、いまや、ややもすると殆(ほとん)ど感情の問題になり、肝心(かんじん)の宗意安心を外にして、区々(くく)たる揚げ足(あ あし)とりの様な形になり、いつまでその論争が続くやら一向(いっこう)わからない様な仕末(しまつ)である。○ところでいま第三者として冷静に両者の所説を見るに、それは結局前にいった学校教育と僧堂教育との対立であるといふことができる。忽滑谷氏はいまやとにかく駒澤大学の学長として時めく人であるに対し、原田氏は僧堂に籠居(ろうきょ)して黙(もく)照(しょう)禅(ぜん)の真諦(しんたい)を説く宗師家(しゅうしけ)である。何(いず)れも曹洞宗としては無くてはならない人物である。その二人が一門も者を引き具(ぐ)し戦っているのであるから、他から見ればたしかに興味ある問題に相違ないが、洞門としては実に容易ならぬ問題である。○学校派勝つか、僧堂派負けるか。それとも勝負はその反対になるか。何れにしても問題が問題だけにそれは文字通り重大事件である。しかも真面目に考へると、それは独(ひと)り曹洞一派の問題ばかりでなく、広く一般仏教界の大問題である。知目と行足、それはどこまでも車の両輪であり、鳥の両翼(りょうよく)でなければならぬ。ややもすると知目を忘れ勝ちな僧堂的教育、行足に怠(おこた)り勝ちな学校教育、何れにも欠陥がある。洞門の人たちは果(はた)してどういう風にこの問題を取扱って行くか、吾人(ごじん)は徐(おもむ)ろにその成行(なりゆき)を観望(かんぼう)したい。(竹林史博『曹洞宗正信論争〔全〕』平成16年、p.186,「現代禅宗界における二大潮流」中外日報第八八一五号 昭和四年一月二九日、ルビ私)
これを読むと今にも通ずる問題の根深さが理解出来ます。つまり、宗教では、実践を重んじるべきなのか、それとも理論を大事にすべきなのか、という切実な課題が問われているのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?