新チベット仏教史―自己流ー

その2
私は、ブラバツキーの著書を読んだことはありませんが、手許には『インド幻視行』という彼女の著書があります。これはインド旅行の紀行文で、祖国ロシアに送ったルポのようなものです。仏教にも関わる個所を以下に引用しましょう。
 ニルヴァーナ(涅槃(ねはん))は、バラモン教でいうモクシャ(解脱(げだつ))と同じものです。それは、孤立しては限界がある極微(きょくび)の粒子(りゅうし)が、無限の果てしない全体と最終的に結合することです。それは、魂にとって神霊(しんれい)の真髄(しんずい)のなかで永遠・自覚の生を送ることです。魂は、広大(こうだい)無辺(むへん)な宇宙(ユニヴァーサル・)魂(ソウル)―万物(ばんぶつ)の始(し)原(げん)―の燃える大海に引き寄せられ、再び合流する一時的・個別的な閃光(スパーク)です。しかし俗事や罪から完全に浄化された魂が、こうして「宇宙魂」(アニマ・ムンディ)のなかへ最終的に吸収されても、人間の魂の消失とか「完全な消滅」を意味するわけではありません。この理論を私たちに解説したとき、非常に博学のシンハリ族青年修行僧ダマパダジョティは、水銀をつめて小壜(こびん)を割り、水銀を皿に受けてから、左右に揺らせ始めました。水銀の塊は、散り散りに分かれましたが、少しでも接触すると、再びいっしょになります。「これがニルヴァーナであり、個々の魂です」と、僧は言いました。「ではなぜ、ニルヴァーナの達成がそんなに難しいと見られているのですか」と、一行の一人が尋ねます。「宇宙魂と同じ性質をもつために元来相互に引き合うのであれば、俗世のしがらみから解放されたとき、個々の魂はニルヴァーナへと入れるはずではありませんか」「その通りです。ただし相互に引き合うためには、個々の粒子が完全に純粋であることが条件です。ではごらんなさい!」別の皿に若干の灰を撒いてから、僧は水銀の塊をこの灰の上に落とし、一滴の油を加えました。それまで動き回っていた水銀の塊は、今は皿の底にじっと動かず、灰に厚く覆われています。汚れていない水銀の大きい塊に近づけようとしましたがむだでした。けっして混ざろうとしません・・・」「世俗の汚れはこのように影響します」と、修行僧は説明しました。「魂が俗世の汚れの最後の一片まで浄化されない限り、ニルヴァーナに入ることはできないし、神の真髄のなかで永遠の生を送ることも叶いません」「ではあなたは、死後の生を信じるのですね?」修行僧は、微かな軽蔑をこめて笑いました。「もちろん信じます。ただしその生が長くなりすぎることを避けようとします。なぜならそれは、われわれの罪を罰するための、重く、しかしおそらく当然の悲嘆となるからです。生きることは、感じそして苦しむことです。生きずに、ニルヴァーナに休むこと、それが永遠の幸福を意味します」「しかしそれでは、魂の消滅を求めていることになりませんか?」「とんでもない。個人の生活と切り離せない苦しみの消滅を求めているだけです。われわれは、至高の宇宙魂との結合のなかに無条件の至福(しふく)を達成しようとしています。無制限で完全なのは『全て(ザ・ホール)なるもの』のみです。バラバラでは、個々の粒子には限界があり、不完全さや欠点が尽きません」(H.P.ブラバァツキー、加藤大典訳『インド幻視紀行』上、2003年、pp.501-503,ルビほぼ私)
なかなか面白いことが書かれています。水銀を用いた説明には、それなりの説得力があります。おそらく、ブラバツキー自身、上の涅槃観を支持しているのでしょう。大まかに言って、ここでは自己と宇宙の合一、すなわち、梵(ぼん)我(が)一如(いちにょ)が涅槃とされています。しかし、それはヒンズー敎等の反仏教側の悟りのことだったのではないでしょうか?そもそも無我を説くとされる仏教では、梵我一如は成立しません。我は存在しないからす。

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