仏教余話

その4
さて、先の引用に「円覚寺に参禅す」という言葉があるが、漱石が禅に興味を抱いていたことは、割合、耳にする話であろう。今西博士は、一章を割いて、漱石の参禅を論じているので、ここで、紹介しておこう。博士は、次のように述べている。
 漱石がはじめて参禅したのは、「英国詩人」の論文を発表した頃である。「明治二十六年の猫も軒端(のきば)に恋する春頃であった。私も色気が出て態々(わざわざ)相州(そうしゅう)鎌倉の円覚寺迄出掛けた事がある。」もっとも、禅に対する関心はそれ以前からもっていた。『硝子(がらす)戸(ど)の中』第九章には、高等学校時代に友人太田達人が、風もないのに往来に木の葉が落ちるのを見て、「あっ悟つた」と叫んだのを回想している。しかし実際に禅寺に参禅したのはこの時が最初であったらしい。友人の管虎男、米沢保三郎が今北(いまきた)洪(こう)川(せん)に師事していた縁によるものであろう。もっとも洪川は前年に死去して、釈宗(しゃくそう)演(えん)が円覚寺管長を継いだ。従って漱石は宗演について参禅した。そしてこのときは、〔犬にも仏性があるかないか、という有名な〕趙州(じょうしゅう)の無字の公案を授けられたと述べている。この参禅は失敗だった。しかし失敗ではあっても、漱石に強く示唆するところはあった。親切にしてくれた宗活という僧侶が一冊の本を手にして読んでいた。
  「何という本ですか」
  「〔中国の公案集〕碧(へき)巌(がん)集、けれど本は余り読むものぢやありません。幾等読んだつて自分の修行程度しか判らぬから」
   之一句は実に大切な事である。
   平常の修行さえ十分にやると、如何なる人物にもなれる。色気づいて熊々鎌倉迄来たのは抑々(そもそも)私の心掛け違いだったかも知れぬ。文学でも人をして感服させる様なものを書こうとするには先ず色気を去らねばならぬ。色気ばかりが沢山で肝腎の実意が乏しくてはぶざまな作物が出来るといふものだ。
  この趣旨は、禅をやらなくても、それぞれの人生の「平常の修行」が十分に出来て、「実意」が充実していさえすれば、「如何なる人物にもなれる」、それぞれの道においてひとかどの人物となりうる、ということであろう。この発言は小説『門』の執筆に着手しようとする時期のものであって、そのまま宗助の禅に対する考え方にも通じている。そして修善寺の大患までは漱石はそのように考えていたのであるが、若い頃も同様であったと言って間違いないであろう。…前に引用した文章の直前に、宗演老師に公案に対する漱石の見解を述べたことについての記述がある。朝の参禅に続いて夕の参禅がはじまる。
 私の順番になって未明に授かつた公案について見解を述べる、言下に退けられて了ふ。今度は哲学式の理窟をいふと尚更駄目だと取合はぬ。禅坊(ぜんぼう)程駄々ツ子はあるまいとほとゝ感じた。
この時期までの漱石にとっては、自分は自分、禅は禅、という関係にとどまる。真剣に禅の問題を考えるようになったのは、修善寺(しゅぜんじ)の大患以後のことである。漱石の門下生や、その影響下にある読者・研究者は、晩年の漱石を基準にしてその生涯を見るので、禅が漱石の中心課題であったかのように理解しているが、大患を境として、大きな展開のあったことを念頭に置いて、漱石の文章を検討する必要がある。(今西順吉『漱石文学の思想 第一部 自己形成の苦悩』1988,pp.324-326、ルビ・〔 〕内私の補足)


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