仏教余話

その219
ローゼンベルグの事跡を概観してきたが、彼は、『倶舎論』などのアビダルマ文献に、何故、あれほど入れ込んだのか。それには、いくつか理由があろうが、1つには、それらの文献に対する評価が、あまりかんばしくなかったことも要因であろう。西村氏の論考により、アビダルマの評判を伺ってみよう。
 もっとも当時ヨーロッパにはこうしたアビダルマを軽視もしくは無視する学者もいた。ドイツのドイセン(一八四五―一九一九)は『インド哲学大要』を著し比較哲学の上でも偉大な学者で、わが国の哲学者にも大きな影響を及ぼした。しかしアビダルマに関しては、
  これらのピタカ(アビダルマ聖典)は以前から想定されているように、形而上学を含んでいない。その代わり名称が意味するように、(旧約聖書)モーゼ五書の第五書同様、補足の規則、法の規定を短く再説するのは何か、とか議論の余地ある点に詳細に立ち入っている。
 と、そこには哲学が説かれていないと断じている。あるいはインド文献の全分野を網羅的に把握したヴィンテルニッツ(一八六三―一九三七)はアビダルマを「仏教スコラ哲学」と解した上で、アビダンマという語は、「高い宗教」とか「高い宗教の玄妙」を意味するので、ときには「形而上学」とも訳された。しかし、真実には、アビダンマは形而上学とは何の関係もなく、哲学に関しては経蔵に教えられているようなダンマというより以上の関係も以下の関係もない。論蔵と経蔵の相違は、実に、ただ前者がいっそう詳細で、おもしろ味がなく学究的であり、一口に言えばスコラ的であるという点である。両者は同一の問題を取り扱う。アビダンマの書物に独創性とか深奥性を見ようとしても無駄である。と言っても、定義は辞書として、また仏教術語の知識に対しては価値があるけれども同義語の無限の連続を主としているだけともいえ、失望させられる。また分類も、それらが含んでいる倫理の心理学的な基礎を創り出そうとする企ては評価されるが、精神作用の徹底的分析は稀である。それ以上に、しばしばそれらは単なる列挙であり、不当に延長されたり気まぐれに創作されたりした陳腐な範疇にすぎない。おおむね、すべてこれらは教条以外の何ものをも生じないで、科学的と呼ばれるべき研究の跡は何もない。
 と、そこには「形而上学」「独創性」「深奥性」はむろん、科学的研究の跡もなく単なる
定義と分類だけにすぎないとまでいう。リス・デヴィズ夫人も自身南伝アビダンマの『法集論』を英訳するという実績があるにもかかわらず、次のような感想を吐露する。
 閉ざされた伝承の中の、過去が現在と未来を支配するようなこの遁世生活の家を出るにあたって、わたしたちは、(その家について)掃除がゆことどき、小ぎれいに飾られ、きちんとした部屋ではあったが、その窓は閉ざされ鎧戸がおろされ曙光に向かって何の展望ももたらさないかのような印象をうける。
 このように当時、ヨーロッパでは経典だけに注目し、アビダルマ論書の意義を無視する学者まであったのである。(西村実則「荻原・渡辺とローゼンベルク(正)」『仏教論叢』48,2004,pp.185-186)
当時の状況の一端がわかる。


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