仏教余話

その220
もっとも、アビダルマに対する、悪評は、今でもはっきりと残っている。例えば、現代の最も優れたアビダルマ学者、櫻部建博士は、一般向けの概説書で、こう述べている。
 アビダルマといい、『倶舎論』といえば、しばしばそれは仏教の煩瑣哲学だと評される。たしかに煩瑣で複雑な教義学がそこには盛られている。かつて諸宗の学林で『倶舎論』を学習した若い僧たちは、戯れにそれを「一部始終ガムツカシイ、三度四度マデ聞イテモミヤレ、ソレデ解セズバヤメシャンセ」と歌った(佐伯旭雅の『倶舎論名所雑記』にみえる)。クシャクシャとこむずかしい議論が続出するから「くしゃ論」というのだという冗談もよく聞かれるところである。すぐれたサンスクリット学者で、『倶舎論』の研究者としても令名の高かった故荻原雲来(一八六九―一九三七)博士は、つまるところ『倶舎論』は「学者の玩弄物」にすぎない、と断じられた。いかにも、『倶舎論』その他のアビダルマ論書をひもといて、そのあまりに形式的であまりに瑣末な問題にはしった議論に接したり、無数の難解な術語の羅列に悩まされたりすると、おそらく僧院の奥に世の喧騒や苦悩を離れて、ひたすら経典の釈義と教理の論究に没頭したであろうアビダルマ論師たちのこの思想的労作は、われわれにはひどく無意味で非現実的な閑葛藤に思われ、本来すぐれて実践的であったはずの仏教の本旨からはなはだ遠ざかったものに見える。もっとも、論師たちにもやはり論師たちなりの真摯な求道上の苦闘があったのであり、そのことは、論書のうわべを鎧っている煩雑や錯綜に眩惑されずに、その奥にひそむ意味を考察しようとする者には、ありありと看取されるところであるから、アビダルマを単に実践・求道と無関係な空論と断じ去ってしまうのは、酷でもあるし、不当でもあるといわねばならないだろうが。(桜部建・上山春平『仏教の思想2存在の分析〈アビダルマ〉』昭和44年、pp.14-15)
このような物言いをする背景には、アビダルマが小乗仏教であり、大乗仏教王国である日本にあっては、その価値は、以って知るべし、という事情があるような気がする。事実、1種実存的な中観に比べると、アビダルマは如何にも、非宗教的であり、人気のない理由もわかる気がする。だが、恐らく、実態は、我々の想像とは違うだろう。どう違うかは、ここでは詳しく論じないが、中観の代表的論書『中論』も、アビダルマの知識なくしては、正確な理解は覚束ない、ということは、紛れもない事実なのである。その事実だけでも認識してもらえば、アビダルマの存在理由は納得出来るであろう。


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