仏教余話
その173
さて、『サーンキヤ頌』の第一頌は次のように述べている。
三種の苦によって逼迫される故に、それを克服するための手段に対する研究がなされる。「(医学や欲望の充足などの)経験的な手段が(存在する)から、そ(の研究)は無益である」と反論するならば、それは正しくない。何となれば、(経験的手段は)絶対的・究極的(に苦を克服する手段では)ないからである。
これは『金七十論』では次のように漢訳されている。
三苦によって逼(迫)される故に、此れを滅する因を知らんと欲す。見あれば(他の因を知らんとすることは)無用なり、とは然らず。不定・不極の故に。
ここでは、苦の対抗手段として世間一般に承認されているものの効用が、相対的なものでしかなく、永久的な苦からの解放をもたらすものではないことを説く。このように『サーンキヤ頌』はその冒頭に三種の苦の存在を述べるのであるが、これを『草枕』の有名な冒頭の文章と比較してみよう。
山路を登りながら、かう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角人の世は住みにくい。
漱石はこの世が「住みにくい」原因を智・情・意の分類法に従って説明している。智・情・意の三は西洋の哲学・心理学で扱っているものであって、明治時代の日本ではよく知られていた。漱石はこれをそのまま採用しているのであるが、『サーンキヤ頌』の第一頌の「三苦」を念頭に置いて、これを現代風に書き換えてこの表現が生まれたと考えられる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?