「倶舎論」をめぐって

第3回 ローゼンベルグの研究1

 前回触れたような経緯で、ローゼンベルグは、日本留学を果たしました。そして、その成果を母校に博士論文として提出します。それが、彼の名を今も不朽なものにしている『仏教哲学の諸問題』です。最初は、もちろん、ロシア語で書かれましたが、彼の死後、未亡人エルフリダ・ローゼンベルグが、ドイツ語訳を完成して、世界中で読まれる本となりました。幸いなことに、ドイツ語訳からの和訳もあります。佐々木現順(ささき・げんじゅん)という学者が訳しました。ローゼンベルグと専門が重なる人です。そのあとがきでは、『仏教哲学の諸問題』への熱い思いがこのように語られています。

 本書は思想を、哲学を、追い求める一般の人士をも今なお、引きつけずにはおかない。本書は学問的息吹きと魂をこめた珠宝であると信ずる。また本書は、私の仏教学への情熱を駆りたてた恩師でもあった。(佐々木現順訳『仏教哲学の諸問題』昭和51年、pp.309-310、ルビ私)

佐々木氏のあとがきでも伺えるように、今では、この本の悪評は聞きません。しかし、昔は、手ひどい批判も浴びています。それを行ったのは、『古寺巡礼』などで知られる哲学者、和辻哲郎(1889-1960)です。少し、その批判を覗いてみましょう。難しい文章ですので、読む前に解説しておきます。和辻が批判するのは、ローゼンベルグ師弟です。彼等、シチェルバツキー・ローゼンベルグ師弟の見解は、アビダルマ(abhidharma)と呼ばれる仏教哲学に関するものです。そして、このアビダルマ=仏教哲学を,和辻は、「法論」と称します。これはアビダルマの訳語です。少し、専門的ですが、解説してみましょう。アビ(abhi)とは、「~に関する」という意味があるので、アビダルマは、「ダルマに関すること」を示します。ダルマ(dharma)は、よく法と訳します。基本的には「規範」という意味ですが、ここでは、「存在」とか「現象」のことを言います。1種の存在論のことです。それを「法論」としているのです。この法をローゼンベルグやシチェルバツキーは、「超越的持者」とします。その点を捉えて、和辻は、ダメだというわけです。「超越的持者」とは、難解な言葉ですが、一般人の認識を超えた存在というようなことを示します。和辻に言わせると、そもそも「超越的持者」としての「法論」は、仏教の正統派ではないのです。では、何が正統なのでしょう。和辻は「空」だと言います。『般若心経』にも出てくる「色即是空」の「空」です。簡単に言ってしまうと、「法論」は、伝統的保守本流のアビダルマの存在論、一方「空」は、それに対抗した新興勢力の存在論です。やや専門的に言うと、「法」を重んじるのは小乗仏教、「空」を説くのは大乗仏教です。大乗仏教は、お釈迦さんが亡くなって、何百年か後で出てきた仏教です。一方の小乗仏教は、お釈迦さんの教えを長年にわたり、精密化(せいみつか)してきたのです。それがあまりに複雑になってきたので、反感を抱いた人たちが、新しい仏教運動を起こしました。それが大乗仏教です。そして、日本の伝統宗派は、そろって、大乗仏教です。ここまで言うとわかりますね。和辻は、大乗仏教こそ正統なので、小乗仏教を扱うローゼンベルグは、非正統的で、よろしくないと述べているのです。この位の知識で、和辻の文章を、取りあえず読んでみましょう。今回は、現代語訳を止めて、そのまま引用してみます。 

 仏教哲学の体系を法論(Dharmatheorie)として解釈しようとする試みは、現代ヨーロッパに於いては、ロシアの仏教学者ローゼンベルグ (Otto Rosenberg)及びチェルバキー(Th.Scherbatsky)によって代表される。ローゼンベルグによれば仏教の哲学はプラトーンの哲学がイデア論と呼ばれる意味に於いて法論と呼ばれねばならぬ。そうしてその法論はギリシャ的意義に於けるOntologieとしての形而上学(けいじじょうがく)に外ならぬのである。…以上の諸義を通覧(つうらん)すれば第二の意義即ち超越的持者としての法の意義が最も重大でありまた最も多く用いられていることは明らかである。しかもローゼンベルグによれば、この意義はこれまで全然知られていなかった。…かくしてローゼンベルグは、法を超越的持者と解しつつ、仏教哲学の体系が法論であることを主張する。我々はこの年少にして気を負える著者の主張の内にも、まさしく正鵠を得た点の存することを認めねばならない。…かくして我々は、仏教哲学を法論とする解釈に賛意を表しつつも、超越的持者としての法の解釈を拒けねばならない。従って仏教哲学が現象存在者の他に不可認識的実在者を立てるところの形而上学であるとの主張をも拒けねばならない。…現実的な存在者とその存在の「かた」との他に、なお超越的存在者を認めることは、問題が仏教の哲学に関する限り、原始仏教の時代よりすでに極力(きょくりょく)排斥(はいせき)せられたとこ
ろであった。仏教哲学のこの主要性格を無視するならば、この中心問題たる「空」は正当に理解され得ないであろう。(和辻哲朗「仏教哲学に於け「法」の概念と空の弁証法」(『朝永博士還暦記念哲学論文集』,1931,pp.3-32、ルビだけは私の補足です)

解説を見てから読んでも難しいですね。仏教関係の専門論文は、普段使わない言葉が、バンバン出てくるので、分かりにくいものが多いのです。しかも内容が哲学的な論文だと、なおさらです。もう1度、和辻の言い分を整理してみましょう。
ローゼンベルグは、全仏教を「超越的持者」としての「法論」の下に論じているが、それでは仏教の本質は理解出来ない、と言っているのです。なぜなのでしょうか?そこには、和辻をも縛っている固定観念が隠されているのです。これを探るためには、仏教の分類法の1つ、大乗仏教と小乗仏教についての概略を知らなければなりません。
 さて、大乗と小乗という言葉を並べてみると、いかにも、大乗の方がりっぱに見えます。実際、大乗は、「大きな乗り物」(maha-yanaマハー・ヤーナ)という意味で、多くの人を救うための大きな乗り物を自負(じふ)した名称です。小乗は「小さな乗り物」(hina-yana、ヒーナ・ヤーナ)で、救われるのは少人数ということになります。この2つの名称は、大乗側からの一方的なものですので、公平ではありません。小乗側では、「悟りを得るためには、僧になって、膨大な修業をしなければならない」と考えているので、少数精鋭主義です。これはこれで、筋は通っています。問題なのは、はじめから大乗仏教が優れているという思い込みが、見える点です。日本人特有の「大乗優越論」なのです。和辻を縛っているのも、同じものです。ローゼンベルグは、それに気付き、当時の学者に意見を述べています。それには後で、触れましょう。

 

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