仏教余話

その225
ついでに、もう1人名、有名な明治の学僧を挙げておこう。明治34年(1901)当時、鎖国だったチベットに入り、かの地から多くの仏典をもたらした河口慧海(1866-1945)である。彼は、井上円了の創設した哲学館、現東洋大学の出身者で、死を賭してチベットに入国した。その顛末は、『チベット旅行記』に詳しい。慧海を含む明治人達の動きを、奥山直司氏は、こう綴っている。
 明治二十年前半(一八八七~)から、明治仏教界には「入蔵熱」(チベット入国熱)が起こる。「入蔵熱」とはいいながら、多くの場合、カシミールやネパールも視野に入れられていたことは注意を必要とする。それは、西洋の東洋学者たちが唱える大乗非仏教論への反証の意図を孕む大乗仏教のルーツの探求、キリスト教に対抗した世界布教など、明治仏教界に課せられたさまざまな課題の解決を目指す動きの一部であった。この頃入2蔵を志した日本人は、真宗大谷派の能海寛、浄土真宗本願寺派の川上貞信をはじめとして少なくないが、一九○一年三月に日本人で初めてラサに到着したのは、堺出身の黄檗僧、河口慧海(一八六六~一九四五)であった。彼の『西蔵旅行記』はスリリングな冒険談であり、当時のヒマラヤ・チベットに関する貴重な記録である。河口のインド・ネパール・チベットを巡る旅は前後二回、通算十七年(一八九七~一九○三、一九○四~一五)に及ぶ。この旅を通じて彼は大量の資料を我が国にもたらした。その昔インド・ネパール方面から運ばれた梵語仏典写本がチベットの僧院(シャル寺)に実在することを確認したのもおそらく河口である。(奥山直司「コラムチベットの探検」『新アジア仏教史09チベット 須弥山の仏教世界』平成22年、p.264)
河口慧海は、有名なので、皆さんも名前くらい聞いたことがあるかもしれないが、当時は、他にも何人かチベット行きを試みた人物がいた。

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