性相学

その8
さて、話題を書誌学的なものに変えてみよう。「日本唯識最大の成果である」と讃えられる『唯識同学鈔』について、あまりご存知ない方も多いと思うので、若干述べておこう。性相学の権威、深浦正文氏は、次のように同書に言及する。
 所説まことに微を穿〔うが〕ち細を極め、實に斯學〔しがく〕の蘊奥〔うんのう〕は、これに究盡〔じんきゅう〕されているというべく、まことに唯識第一の名著として敬重されているのである。(深浦正文『唯識學研究 上巻 教史論』2011オンデマンド版、1954年初版、p.401,〔 〕内私の補足)
ただ、このような指摘は見直しを迫られてもいる。城福雅伸氏は、こう述べている。
 『同学鈔』が後世に大きな影響を与えたことは否めない事実であろうし、日本唯識思想史上において最も重要な、また尊重すべき典籍の一つであることも確かである。しかし、以上のように考察してきた結果、『同学鈔』は日本唯識の正義の確立を意図したり、教学の蘊奥を尽くす目的で編纂された典籍でも、またその内容のほとんどが至上の説あるいは当時の唯一絶対の説などによって構成されているものとは言えない。むしろ、蔵俊や古徳の義を中心にし、それにかかわる不審点や疑問点もそのままにして編纂され、後は注記等を付し学習者の判断にゆだねているようである。これは『同学鈔』が教学の復興と興隆のためにも学習者のための参考書的な、あるいは学習の依り所となるべく編纂されたためであると考えるのである。(城福雅伸「『唯識論同学鈔』についての一考察」『山崎教授定年記念 唯識思想の研究』昭和62年、p.80)
更に、楠淳證氏も、以下のようにいう。
 「同学鈔において唯識宗の正義は確立された」とみる学者もあるように、一般に日本唯識教学は鎌倉初期に編纂された『唯識論同学鈔』の成立をもって「帰着点」とみなされる傾向にある。しかし、『同学鈔』は主に古抄物や蔵俊の『菩提院問答抄』を規範として、当時の一般的教説に基準をおいて作成されたものにすぎず、決して宗義を最終的に決着した書ではない。鎌倉から室町にかけての時代に『同学鈔』収録の教説をひるがえすような事態がしばしば生じてきているのもこのためである。(楠淳證「日本唯識の研究―安養唯報・通化説の展開―」『印度学仏教学研究』35-1,昭和61年、p.191)
その後、『同学鈔』への評価が、どのようになっていったのか、詳しいことは調べていない。
ただ、学説の移り変わりを思うばかりである。
さて、編者貞慶は、興福寺に属し、伝統的に性相学の北伝といわれる派である。性相学には、南伝・北伝の2派がある。両派について、深浦氏は、以下のようにいう。
 就中特に元興・興福の兩寺が最も榮え、それがいわゆる南北兩寺の敎系として、後世に至るまで斯學の學流をなすに至った。『傳通縁起』巻中にいわく、
  興福・元興南北兩寺學者衆多、競立義理、因内二明互諍金玉、朋當相扇成兩寺異〔興福寺と元興寺の南北の両寺には、学僧がたくさんいて、解釈を競っている。論理学と唯識という2つの学問で、学識を争っているのである。仲間同士切磋琢磨して、両寺の違いを成している〕
 と。(深浦正文『唯識學研究 上巻 教史論』2011オンデマンド版、1954年初版、p.378,〔 〕内は私の訳)
更に、こういう。
 而してこれら二流の敎系は、前者が南寺傳と呼ばれ、後者が北寺傳と呼ばれる。その南寺傳とは、元興寺の傳であって、本寺は、如上もと飛鳥の地に建てられ、よって飛鳥寺とも稱せられたから、この傳をまた飛鳥傳ともいう。その北寺傳とは、興福寺の傳であって、本寺は、その位置南都御葢(みかさ)の山麓にあるところより、この傳をまた御葢の傳ともいう。(深浦正文『唯識學研究 上巻 教史論』2011オンデマンド版、1954年初版、p.382,( )内は本文にルビあり)
両者の異同については、以下の如く解説している。
 南北の兩傳は、法門の上に何等左右するところがないのである。しかしながら、文義の解釋には、さすがにその相違を多く見出し得ること、是非もない。而して、北寺は南寺に比べ、〔玄奘〕三蔵直傳ではなくて、三祖〔智周(ちしゅう、668-723)〕の定判を經たものの相承であるから、その所説、頗(〔すこぶ〕る精密緻密を極めおる趣きの認められるのは、掩〔おお〕うべからざるところである。先にも一言せる如く、古來内明〔=仏教学〕にあっては北寺を以て勝義とすべく、因明〔=論理学〕にあっては南寺を以て的確とすべしといわれるもの、必ずしもゆえんないではない。けだし、北寺の本處興福寺は、専寺といわれるほどあって、もっぱら自家の面目たる法相門の發揮、すなわち性相の決擇〔けっちゃく〕を主眼とせるを以て、その所説おのずから細緻を盡〔つく〕して優秀を極め、また南寺の學風は、法相門〔ほっそうもん〕よりもむしろ觀心門〔かんじんもん〕たる實践の徹底を期し、ただに自家固有の敎義のみに止まらずして、禅旨〔ぜんし〕の工夫を傳持するあり、從って、論議の斷定のもと、直に觀心の實践を期すべく因明の眞髄發揮に主力を效せるわけである。(深浦正文『唯識學研究 上巻 教史論』2011オンデマンド版、1954年初版、p.420,〔 〕内私の補足)
最後の「直に觀心の實践を期すべく因明の眞髄發揮に主力を效せるわけである。」と述べる理由が、私にははっきりしないが、夫々、得意とする分野があった、ということは理解出来る。日本には、膨大な仏教研究の蓄積があることを再認識する必要があろう。ちなみに、貞慶は「興福寺奏上」(1205)という意見書を出して、「法然の念仏を禁止せよ」と迫った人物である。よく知られているように、法然は、鎌倉新仏教の先駆けとなったような人物
である。一方の貞慶は、明恵(1173-1232)等とともに、それを排斥しようとした鎌倉旧仏教の代表として有名なのだが、法然の名は知っていても貞慶の名は知らない人は多いだろうと思う。明恵も小林秀雄の評論等で、比較的知られている。それに比して、貞慶は人口に膾炙していない気がする。何年か前の大河ドラマで、安部サダオが演じた信西(しんぜい、1106-1160)という僧がいる。平治の乱で自害した。その孫が貞慶なのである。私自身は、
彼の『唯識同学鈔』を手に取ったこともない。しかし、元々、インドに発した唯識を中国経由で、緻密に論じた書物であることは察しがつく。我が国の伝統を見直すべきであろう。
ただ、貞慶は、単純に、性相学のみを報じた学僧と捉えるのは、浅墓なようである。当時の状況は、かなり複雑である。苫米地誠一氏は、こう述べている。
 法相宗僧として『唯識同学鈔』など法相宗関係の著作を多く著しており、その思想、信仰についても法相宗の教理的背景の下に説明されるのが常である。而し貞慶が真言宗僧であること、その真言宗の思想・信仰に関する側面については現在までの所、殆ど無視されており、貞慶に関する理解は極めて偏ったものになっていると思われる。(苫米地誠一「解脱房貞慶と興福寺真言宗」『佛教文化学十周年 北條賢三博士古希記念論文集 インド学諸思想とその周延』2004,p.683)
更に、こう述べている。
 貞慶は、興福寺の中で、真言宗の修学より始め、更に法相宗と律宗の三宗を兼学していた訳であるが、...このことが貞慶の著作において、表面上、真言教学の反映が余り見られないということにも繋がるのであろう。而し法相宗・三論宗・華厳宗などの顕教諸宗と、真言宗を兼学するとき、その信仰の基本的な立場は、教判論の問題からして、どうしても真言宗(密教)とならざるを得ないものである。(苫米地誠一「解脱房貞慶と興福寺真言宗」『佛教文化学十周年 北條賢三博士古希記念論文集 インド学諸思想とその周延』2004,p.687)
氏は続ける。
 既に法相宗は、その本所たる興福寺に真言宗僧が入り込み、一乗院や大乗院といった有力な院家を形成し、その〔公家出身者が、本寺の中で別経営している〕院家の力を以て〔寺の管理者〕別当職を独占し、興福寺一山を支配していたのであり、即ち真言宗僧によって兼学される宗となっていたのである。実質的には真言宗の付宗と化していたともいい得るのである。(苫米地誠一「解脱房貞慶と興福寺真言宗」『佛教文化学十周年 北條賢三博士古希記念論文集 インド学諸思想とその周延』2004,p.694、〔 〕内私の補足)
なぜ、兼学の必要性があったのだろうか?この点について、苫米地氏は、このように指摘する。
 真言宗僧が確実に〔僧の管理者〕僧綱位〔そうごう・い〕へ上るためには顕教諸宗を兼学し、その顕教諸宗の枠によって〔代表的な仏教行事である〕三会講師〔さんえ・こうじ〕になることが必要であったと思われるのである。(苫米地誠一「解脱房貞慶と興福寺真言宗」『佛教文化学十周年 北條賢三博士古希記念論文集 インド学諸思想とその周延』2004,pp.695-696、〔 〕内私の補足)
諸宗間の政治的駆け引きが、事を複雑にしていたということであろう。性相学1つを考察するにも、様々な視点からなされなければならない、ということを認識してもらいたい。書誌学的に、付言すると、先に狂言の論文に出てきた良遍(1194-1252)作『法相二巻抄』には、現代の学者による解説本がある。横山紘一『『法相二巻抄』を読む 唯識とは何か』昭和61年がそれである。横山氏は、同書について、以下のように説明する。
 本書『二巻抄』は別名『法相二巻抄』『唯識大意』ともよばれ、良遍が実母のために法相唯識の教理を平易に、しかも仮名交じりの文をもって書いたものであり、かれの主著『観心覚夢鈔』とならんで、古来から唯識の入門書として多くのひとびとによって読まれ親しまれてきた。このうち『観心覚夢鈔』が漢文で書かれ、やや内容も難しいのにくらべ、『二巻抄』は母のために書いたこともあって、時折和語もまじえた易しい表現が用いられているから、唯識習得の第一歩を踏み出そうとする人のためには、絶好の入門書である。(横山紘一『『法相二巻抄』を読む 唯識とは何か』昭和61年、p.v)
易しいといっても、理解困難な教理を説いているのだから、それなりに難しい個所はある。しかし、唯識勉学の始めに読むものとしては無難かもしれない。近時、唯識研究もサンスクリット語やチベット語、あるいは漢文に基づく研究が主流であるが、我が国にある素材は、それらに比して軽いものではない。ちなみに、「蛇・縄・麻」とおぼしき喩えの説明を横山氏の著書から、引用してみよう。
 喩バ縄ヲ見テ蛇ト思フ時、三重ノ事有リ。縄ノ性ハ藁也。ワラノ上ニ手足等ヲ縁トシテ仮ニヲコレル形也。其縄、形キワメテ蛇ニ似タリ。依此人誤テ蛇ト思事アリ。其蛇ノ形ハ只ヒガメタル心ノ上ノ面影ニテ、体性都無也。彼ナワノ形ハ、縁ヨリヲコリテ仮ニ有ニ似タレドモ、実ノ体ハナシ。実ノ性ハタヾ藁也。サレバ蛇ノ相ハ其性ヒタスラニナシ。ナハノ相ハ仮ニ有リ。ワラノ体ハ縄ノ性トシテマコトニ有リ。円成ノ理ハ其藁ノ如シ。依他ノ諸法ハ彼縄ノ如シ。遍計所執ハ彼蛇ノ形ノ如シ。(横山紘一『『法相二巻抄』を読む 唯識とは何か』昭和61年、p.63)
「蛇・縄・麻」の喩えは、見事に唯識の三性説に対応している。先に長尾博士の批判も見たが、これはこれで納得のいく説明であろう。
最後に、性相学とは、一体何者なのか?と言う点について、確認しておこう。
 そもそも倶舎〔くしゃ〕や唯識の仏教学を呼んで性相学と称することは、何時より始まりたるか、更〔さら〕に詳〔つまび〕かならず、慧澄律師〔えちょう・りっし〕の『七十五法大意』〔しちじゅうごほう・たいい〕には、「性とは法の体性の類の同じからずを云う、相とはその類の不同なるを見分〔みわけ〕る辺〔あたり〕より云〔い〕う、性相ともに法の事類差別〔じるいさべつ〕を指して云うことなり」と云えり。是の意味より云えば法相〔ほっそう〕と云うも、性相〔しょうぞう〕というも同意味にて、現象界の諸法を研究する学問と云う意味なり。法相宗の字義を解して諸法の体性相状〔たいしょう・そうじょう〕を決択〔けっちゃく〕すというものも粗〔ほ〕ぼ同一意味と云うべし。(妻木直良「性相随筆」『大崎学報』23,明治45年、p.52)
大分昔の文章で恐縮だが、つい最近まで、大いに盛んな学問仏教であって、しかも千年以上の伝統を誇る、となると、こういう文の方が感じが出るかもしれない。とにかく、性相学をもっぱらとする宗派を法相宗(ほっそうしゅう)という。聞きなれない宗派名だろうが、紛れもなく、現代日本にも現存する。先に見たように、先年、阿修羅像で話題をさらった、興福寺等は、その宗派に属す。法隆寺もそうである。法相宗とは、中国版唯識の教えを奉ずる宗派である。現代の唯識学者、横山紘一氏は、その思想を、次のようにいう。今度の文章は、幾分わかりやすいはずである。
 中国で玄奘や〔その弟子〕窺基〔きき〕によって確立された唯識思想の学派を〈法相宗〉という。法相宗とは、存在(法)の相〔すがた〕を考究する宗派という意味であるが、詳しくは、法性相宗とでも言うべきであり、この派の趣旨は性〔しょう〕と相〔そう〕とをきっぱりと区別して、それぞれの何たるかを明確にすることである。…唯識思想はこのように本質と現象とを明確に区別することを主目的とするのであるが、その出発点はあくまでも現象(相)の分析である。自己の感覚や知覚あるいは思考、およびそれらの対象、という現実の諸経験の考究から事物の本質に迫ろうとする態度は、すこぶる「科学的」であり学問的である。唯識思想がスコラ哲学のように極めて煩瑣であり、また学問的・哲学的色彩の強い仏教宗派であるのはこのためである。(横山紘一『唯識思想入門』1976年、pp.96-97,〔 〕内私の補足)
以上、唯識=性相学について、豆知識をまとめてみた。性相学は、難解を以って知られる学問仏教の代表格だが、難しい教理に触れることが少なくとも、語るべきことは多いのである。『俱舎論』と関係の深い性相学について、探って見た。


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