仏教余話

その72
少し、話題はずれるが、仏教論理学において、最もホットな議論に関して、アウトラインを提供しておこう。皆さんは、仏教論理学などの概説書に触れる時、論証の規則やら、ややこしい存在論・認識論の類いについての解説に辟易した経験があるかもしれない。だが、仏教論理学の中心的狙いは、そんな瑣末な議論にあるのではない。論証の規則を詳しく論ずる裏には、ブッダの存在を、他のどの宗派の開祖よりも、高めたいという願望が隠されているのである。仏教徒からすれば、ブッダは、完全無欠なる存在で、ブッダのことを彼らは、「一切智者」(sarvajna)と呼び、世界中の蟻の数さえ知っているような存在と讃える。讃えるだけで満足せずに、納得しない者を、説得しようとする。その時、必要になるのが、論証というわけである。インドの論理学書には、よく、「煙を見て、火の存在を推理する」という馬鹿馬鹿しいほど自明なことを、延々と議論するような場面がある。これは、そんな日常的な単純なことを論じて、将来的には、ブッダが一切智者であることまでも論証出来るようにという深謀遠慮の上でやっていることなのである。実際、ダルマキールティの主著『量評釈』の第2章「量成就」pramana-siddhi章は、その目的のために草されたものであるし、大分以前、「サムイェの宗論」のインド側の当事者であったカマラシーラとその師であるシャーンタラクシタの合作である『真理綱要』Tattva-samgrahaという書物の最終章も、それがメインテーマである。このテーマは、インド思想界の大物達を巻き込んで、自派の存亡をかけた大議論に発展していく。いわば、宗教と論理の接点であり、極めて、興味深い話題である。最近、刊行された概説書で、この問題を解説している護山真也氏は、こう締めくくっている。
 ブッダの全知者性にせよ、輪廻的存在にせよ、普通、われわれはそれらを信仰の領域に属するものとして合理的思惟の対象としては考えない傾向にある。しかし、これまで確認してきたように、古代インドの仏教徒たちは、信仰と理性との間に線引きを行い、両者の架け橋を断とうとする近代的思考とは異なる地平で、これらの宗教的命題を捉えるための努力を行ってきた。それは、彼らの論理学が、決して経験的事象を記述することだけを目的としたわけではなく、むしろ最初から宗教的命題を視野におさめ、われわれの認識を超えた事象を検証・判断するための方策として構築されたことを意味するだろう。(護山真也「全知者証明・輪廻の証明」『シリーズ大乗仏教9 認識論と論理学』2、2012、所収p.253)
この問題は興味も呼ぶが、根も深い。そもそもは、ディグナーガが『集量論』冒頭の帰敬偈でもらしたたった1語「量となった方」pramana-bhutaが発端なのである。その1語を巡って、ダルマキールティは、『量評釈』「量成就」章で、300偈以上に渡り、議論を展開するのである。その議論を踏まえて、シャーンタラクシタ・カマラシーラ師弟が、さらに1歩を進めたのである。

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