性相学

その4
もう1つ性相学が文芸に与えた影響を見てみよう。平安から鎌倉にかけて、主に武士の間に流行った歌がある。宴曲とも早歌(そうが)ともいう。これに関して、乾克己氏は、こう述べている。
鎌倉時代に幕府を中心とする武家社会で流行した宴曲(早歌)には、…幕府の外護を得て発展した禅宗文化の影響がみられる。また一方、これら新興の禅宗讃歌ともいうべき曲とは対照的に、南都旧仏教を代表する興福寺を讃美した「南都霊地誉」があって注目される。宴曲には新興仏教の禅宗や浄土宗だけでなく、旧仏教の天台宗や真言宗を歌った曲があって、それぞれに仏教思想を多面的に受容した宴曲の特色を見いだすことができるのであるが、「南都霊地誉」も旧仏教受容の好例とみられる。本曲は嘉元四年(一三〇六)に明空が集成した「拾菓集」の冒頭に位置する曲で、曲名が示すように南都の霊地に法相擁護の神として垂迹した春日明神と、同じくこの地に繁昌する興福寺とを讃美し、法相宗の伝統と権威を宣揚した作品である。(乾克己「宴曲「南都霊地誉」と法相宗―玄奘三蔵絵との関連を中心としてー」『和洋國文研究』15,昭和54年、p.30)
細かい論述には触れないが、今で言う歌謡曲の中に、性相学の影響がはっきりとあるということがわかる。
 更に、日本古典文学の王道である和歌にも、当然のように、性相学の影響は深い影を落とす。岩佐美代子氏は、1時代を画した京極派和歌の推進者、京極為兼(1254-1332)について、次のように語っている。
 最も根源的に彼の文学的意欲に根拠を与え、自己の欲する文学表現が和歌としての正道であるのみならず、仏道修行の上からもまさしく究極の真如に至りうる正道である、との信念を確立する基礎となったものは、彼の若年時に学んだであろう唯識説の思想であったと考えられる。(岩佐美代子『京極派和歌の研究』昭和62年、p.7)
岩佐氏は、ここで明確に、唯識=性相学と為兼の和歌との関係に触れている。岩佐氏は、
恐らく、唯識的な為兼の歌風には、早くから気付いていた。前著で、こう述べている。
 …為兼が〔歌論〕和歌抄に叫んだのは、ただ一つ「心」の尊重、「心のおこるに随而、ほしきまヽに云出」作歌態度の尊重であった。その結果としての表現が「世のつねの」おもしろきものになろうと「さまあしきほど」のものになろうと、それは問題ではない「おの〱ともかくも心にまかせて、おもひ〱によむべき」(〔為兼批判をした〕野守鏡に引く為兼の説)なのである。自然詠であろうと観念歌であろうと、叙景歌であろうと叙情歌であろうと、ただこと歌であろうと古典的技巧的な歌であろうと、要は「こと葉にて心をよまむとする」のではなく「こころのまヽに詞のにほひゆく」表現を行うことが大切なのである。これが為兼卿和歌抄の本義であり、他の諸論は皆この「心」尊重の本義の正当化と権威づけのために総動員された、方便にすぎないのである。(岩佐美代子『京極派歌人の研究』昭和49年、p.106、〔 〕内私の補足)
心重視は、唯識の本質であろう。以下のような評価もある。
 為兼歌論には写実性(しゃじつせい)の認識があり、作品自体にはより濃厚(のうこう)に写実性を指摘しうるが、作品にみられる写実性も印象の内面的再構成の結果であり、いわば芸術写真の持つ写実性に共通する。角度や露出やしぼりあるいは距離を明晰(めいせき)な意識によって操作しているのである。特に恋歌(れんか)にはその操作が顕在化(けんざいか)しているから、恋歌を読んでから叙景歌(じょけいか)を読むと、京極派(その内部にも諸傾向があるが)の特色がよくわかるはずである。為兼の歌論および和歌について写実をいうことは勿論(もちろん)誤りではないが、その本質を写実主義ということはできないのである。(藤原春男「古典歌論における写実」『短歌』28(4),1981,4,p.55、ルビ私)
最後に、京極為兼自身の和歌を1首紹介しておこう。
般若心経畢竟空〔はんにゃしんぎょう・ひっきょう・くう〕の心を
 むなしきを・きわめをはりて・そのうえに・よをつねなりと・またみつるかな(玉葉、2722)
現代語訳をしてみたい。「世の中は所詮空であるから、虚しいが、その境地に到達すると、心の持ち方も変わって、日常世界は虚しいとは思えなくなる」ほぼこのような意味だと思う。あえて、心重視の唯識的に解釈してみた。

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