仏教余話

その158
ヴァスバンドゥ(世親)は右の詩頌一・一を解説して次のように言う。
  このようにして、「或るものが或る場所にないとき、後者(すなわち或る場所)は、前者(すなわち或るもの)について空である、というように如実に観察する。他方また、(右のように空であると否定されたのちにも)なお(否定されえないで)なんらか余ったものがここにあるならば、それこそはいまや実在なのであると如実に知る」という(ように述べられている)空性の正しい相が(この詩頌によって)はっきりと示された。〔evam”yad yatra nasti tat tena sunyam iti yathabhutam samanupasyati,yat punar atravaisistam bhavati,tat sad ihastiti yathabhutam prajanati”ity aviparitam sunyatalaksanam udbhavitam bhavati/〕
「…..という(ように述べられている)」という表現は、右の引用符でつつんだ文章が、ある典籍からの引用文であることを示唆している。もしそうなら、引用は確かに『小空経』からの引用に他ならないであろう。経とこの引用文との類似性は明白だからである。ヴァスバンドゥはまた、この経典に従って、「空性の正しい相がはっきりと示された」とその中でいっている。事実、瑜伽行派の空性の解釈は根本的にこのような考え方に沿うものである。ところで、「なんらか余ったもの」(avaisista)という表現は全く謎めいてい
る。何故なら、空性は一般に非存在であり、否定的な性格のものである。これはおそらく徹底的な否定の極限においても、なお否定しきれない究極的な実在として理解されるべきであろう。例えば、それは否定しているという事実を否定しえないという状況に似ている。それは否定のただ中に見出される肯定であり、否定の中に見出されるが故に真の有である。『中辺分別論』一・三が空性の定義を説いて次のように言うのは、恐らく上述の考えに従うものであろう。
 実に(主観・客観の)二つの無であることと、(その)無の有であることが空の相である。〔dvayabhavo hy abhavasya bhavah sunyasya laksanam/〕
 このように、空性は「無」のみならず「無の有」を含む。そして、これこそ瑜伽行派の解釈の特徴であることが明らかである。しかし、「無の有」を付け加えるこの考え方は、後代の中観派によってはげしく攻撃された。後者によれば、空性の真の意味は「無」であり、徹頭徹尾ただ「無」である。「無の有」を付け加えることは、不必要であるだけでなはなく、自己矛盾の故に不合理である。…存在と非存在という二十性があればこそ、「空性」は、「煩悩則菩提」「生死則涅槃」「不断煩悩得涅槃」等々の大乗の古い格言の底に流れる原理となるのである。虚妄分別と空性の間に見出される二十構造は、輪廻(samsara)と涅槃(nirvana)が一致し、不二であることを現している。世界は「空」であり、かつそれがこの二重構造を有することが理解されないならば、これらの大乗的格言は、単に矛盾に満ちた愚かしいことばに止まるであろう。(長尾雅人「空性に於ける「余れるもの」」『中観と唯識』1978所収、pp.542-554,〔 〕内の原語は、注から私が補足した)
中観と唯識の埋まらぬ溝を埋めようとする長尾博士の苦悶が見られるような気がする。


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