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「察知力」があなたを救う「スキル」かもしれない話

先日、本当にあった出来事

先日、歩いていたらこんな場面に遭遇した。

向こうから、足早に女性が歩いてくる。手荷物なし。そのちょい後ろを男性が歩いている。どうやらお連れ様のご様子。こちらの男性は、バッグのようなものを持っている。

観光地でしたから、ひょっとしたら、ホテルに荷物を置いて二人で散策・・・といった具合だったのかもしれない。

ぼくと女性がすれ違いかけるくらいのタイミングで、男性は女性にこう声をかけた。

「◯◯ちゃん、速いよ」

それに対する女性の返答はなし。その後、立て続けに男性はこう言った。

「オレは荷物を持ってるんだからね、◯◯ちゃんの」

この後、お二人の間でどういう会話がなされたか(あるいは、なされなかったか)については、ぼくには知る由もなく。また、その前にどういった会話がなされていたか(あるいは、なされていなかったか)についても、ぼくは全く知らない。

鈍感日本代表から一言

が。鈍感日本代表(通称:ニブチンブルー)で不動のエースを10年以上務めたぼくですら「いやいや、今それは色々アウトでっせ」と言いたくなるシーンが散見された。

そもそも、道幅が狭かったと言えども、二人で遊びにきているのに女性がさっさと前を歩いている時点で「あれ?」と思うべきである。

加えて、これは私が向かいからすれ違う角度でお二人(特に女性)を見ていたから気付けることだけれど、女性の表情がなかなかに険しい。控えめに言って、にこやかとは言い難い。

極めつけに「そらアカンやろ」と思ったのは、男性の発言である。

だいぶ好意的に受け取って、百歩どころか一万歩くらい譲って、場を和ませようと思って冗談を言ったのかもしれないが、今は「ソレじゃない」感が強かった印象だった。

「ゴジラのソフビ人形買ってきて」と言ったのに「ガメラのプラモデル」を渡されたくらい、ソレじゃない。

というか「ガメラのプラモデル」なんてあるのか。

それはさておき。

それもこれも「察知」ができていないからこそ起こることではないか、とぼくは思っている。

「察知」こそが人間関係において必須である

【察知】おしはかって知ること。それと気がつくこと。

察して、知ること。

言われれば、大抵の人はわかる。知ることができる。だけれども、人間関係においては(特に人間関係やビジネスの場面)「言われてわかった」のでは遅すぎる、ということが往々にして起こってしまう。そんな経験をお持ちではないだろうか。

これには諸説あり、色々なご意見があるかと思うけれど、総じて女性の方が男性に比べて繊細にできている。

男性が全く気にならない(あるいは気付いてすらいない)ことだったとしても、女性はイラッとしたり、悲しくなったりしているものである。

鈍感日本代表は、それを「察する」ということができない。ココに問題があるわけだ。

わかりやすいのが男女の関係なので例に取りますが、男性が「突然、彼女から別れ話を切り出された」という時、それはおそらく「突然」ではない。積もり積もった「何か」を察することができず、我慢の限界まで到達してしまった結果。そう考えたほうが、色々と説明がつきやすい。

同じことは、ビジネスでも起こっているはずである。突然、契約解除を言い渡された。あるいは、いい感じで商談が進んでいたはずなのに、なぜか途中で破談になった。これはおそらくいずれも「突然」ではないのだろう。

おーこわ。

「常にこれが正解」がない世界

これを防ぐためには「察知力」を磨くしかないのである。それは、色々な知識や情報を仕入れたとしても、到底まかなえるものではない。ある時は「イイね!」と褒められた行動が、別のある時には「最悪!」になるのが人間関係だったりする。ムズー。

いくら「こういう時はこう言う」とか「こういう時はこう動く」といったノウハウやハウツー、テクニックを磨いても追いつかない。

なぜなら、状況が違えば「正解」が変わるから。あるいは「正解」なんてものは「存在しない」とも言えるかもしれない。

その瞬間に、何を言い、何をすべきかを選ぶには「察知」するしかないのである。相手の気持ちや状況、何をしてほしいか、どう動いてほしいかを察して、理解して、それに合わせて動くこと。

鈍感日本代表としては「そんなことできるの?」と思う。もちろん、訓練は必要である。場合によっては特訓が必要かもしれない。

でも、人間にはちゃんと状況を察知する力が本来備わっているはずなのである。それを呼び起こすしかない。

武道を通じて「察知力」を磨くこと

その訓練に適している意外なもの。それは武道である。かの剣豪、宮本武蔵は「三つの先」を大切にせよと言ったという。

あ、ミュージカルをたくさん書いている演出家でロマンスグレーなのは宮本亞門だし、エレファントカシマシは宮本浩次。そして『マルサの女』は宮本信子である。または伊丹十三。

そう、これは余談というか、無駄口である。

それはともかく。「三つの先」とはなんぞや。こういうことらしい。

・懸(けん)の先:自分から先に相手にかかり先を取る
・待(たい)の先:相手に先にかからせておき先を取る
・躰々(たいたい)の先:自分と相手が同時に動いた時に先を取る

要は相手の状況や動きを察知して、どう「先」言い換えれば「先手」を取るかということ。何ごとにおいても、後手後手に回ってしまうと困りそうなのは予想がつくだろう。

ただ、常に自分から相手に働きかけることだけが「先」ではないのが面白いところである。「待の先」、つまり相手に先に動かせておいて、こちらが先を取る、ということもある。

つまり、いつどこで、どういう状況であろうと「察知」することが欠かせないわけだ。それこそが、恋愛においてもビジネスにおいても差を生む、ということになるのだろう。

その特訓には、間違いなく武道が役に立つ。ワタクシはそう思っている。

ただまあ、こんなことをニブチンブルーのエースを10年務めてきた私が言っても信用されないかもしれないということも、薄々は勘づいている。

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