日記 2024.2.18 (2.28に考えてるメモ)

溶けるように10日が経っていた。この間に助成金の報告、トークイベントの準備と進行、自主的なリサーチの文字起こし、学会発表へのエントリー、職場の飲み会などをこなしてきた。そもそも週に4日ほどの勤めもある。我ながらよくやったほうだと思う。
2.28のいまは自主リサーチの中間成果の作成、引き続き文字起こし、茨城の仕事のあれこれ、観劇(行けるか怪しい)、有志の活動のやりとり、そして日々仕事に行っている。だいぶ体が参っている。昨日2/27は休みだったが活動的になれなかった。花粉も始まっている。

ここには粛々と2/18の出来事を書くべきなのだけど、そうしているうちに2/28現在のことが取りこぼされていく気がする。まずは2/28のことを書く。

インタビューから作品をつくること

半年くらい前からインタビューで作品を作ることについて考えている。本を読んだり、信頼できる人に話を聞いたり相談に乗ってもらったり。だれかの話を面白いと思って聞くこと、だれかの話を創作の核に据えること、その危うさをここ数年感じながらもはっきりとした言葉になっていなかった。でも手と頭を動かすなかで自分なりにいくつかポイントがわかってきた。

  • 相手とどういう質の関係を築くか、どれくらい継続するか(単に近くて長ければよいということでもない)

  • インタビューのときに注目するのは語る瞬間のその人か、その人の向こうにある過去の出来事や、出来事を取り巻く構造か(聞き手の興味がそのまま出る)

  • インタビューをどうしようと思っているのか。ありのまま扱うのか、個人がわかるかたちでは使わないのか。そもそも何をつくろうとするのか、なにをつくるひとと自分を自認しているのか。

  • 自認している創作について、なぜわたしはほかでもないその方法を選び、実行するのか(作品化の意味/アーティストとしての生き様/切実さ)

インタビューには魔力がある。面白い話を他の人にも伝えたいと思ってしまし、それは良い活動なんだと思い込んでしまうこともあると思う。そんななかで「個人がわからないかたちにすれば自分の責任として引き取れるから大丈夫だ」などと思い至ることもある。あった。
しかし相手はそこで生活を続けている。つくるわたしにとっても、話す相手にとっても、語りが作品になることには一定のリスクがある。それを「ともに」積み上げていくことが大事なんじゃないか、と思いつつある。自分はインタビューのあとにもできるだけ通って交流を続けることが多いけれど、そこでは関係値の維持みたいな計量的なことではなく、創作の当事者としての関係を深めることがきっと重要だ。ワンショットサーベイや、本番までの協力を取り付けるだけの挨拶はあまりよくない。
だが一方、聞き手は同じ土地に居続けるとは限らない。各地で活動するのもまた聞き手の生き様で、そのあたりへの相互理解を育むということもインタビューやそれを取り巻く交流には入ってくるような気がする。
こうしたことを念頭に入れると、インタビューのその瞬間の聞き手の身体というものも変わってくるような気がしている。

また自身の前提についても見直すと、上記のようなことをわたしは作家や演出家的な頭で捉えている。インタビューをもとになにを書くか、どういう場を生み出すか。これが俳優だと、舞台美術家だと、違うことになるのだと思う。「つくる」ということばで一概にはくくれない。だから、なにをつくるためのインタビューなのか。インタビュー概論や立場それぞれの話を追うだけでなく、手も動かしたくなってきている。
いまわたしは何をつくりたいだろう。ゆっくりと進める長期プロジェクトのプランを立てたい気持ちもある。

「脱劇場の系譜」の活動

インタビューのリサーチと並行して、劇場でやらないアーティストの過去の実践をたどる活動を有志でしている。最近ゲストを招いたトークイベントを行ったのだが、前に立って会の進行を担当したことを通して、わたし自身にとって劇場とは、脱劇場とはなんなのか?に真正面からぶつかった。大学を出たあたりから小劇場を離れてまちなかでの活動を展開してきて、いまもまちなかを仕事場にしている。そんななかで自身の位置付けを探るためにこのリサーチ活動に参画したが、諸先輩や観客がどのように「脱劇場」に関心を寄せているのかということに関心はあっても、わたし自身がどう考えているのか棚上げしていたことに行き着いた。とうとう袋小路に入ったというかんじもある。
脱劇場ということばは劇場に対する異議申し立てであり、また数十年前からさまざまな色合いのなかで使われてきたことばだ。では、わたしは劇場をどう考えているのか?

逆説的だけど、10年ほど劇場から離れたところで活動をしてきて、いま劇場への関心が高まっている。劇場がこうあるといいという理想と現実のギャップはあれど、劇場という概念に対する批判は自分のなかに今のところ明瞭にはない。見る/見られるを破壊せねばならないといったことも思わない。劇場だからこそ持っている知恵を社会に共有することは意味があるし、そこでは知恵を翻訳する仕事がいるだろうと思う(ドラマトゥルクなのだと思う)。
わたしが問い直したいのは劇場theaterと社会の関係なのだと思う。そのなかで空間としての劇場を離れた活動をしてきたが、それは社会との関わりを求めたからだ。
また、世界はすべて劇場という言説には安易に乗りたくない(だれもがアーティストという言い方も好きじゃない)。メタファーや視点としては事実なのだけど、大事なのはその先でなにをするか。そう思うとわたしはコテコテな演劇・劇場人間で、演劇や劇場ということばを従来通りの射程でつかっている。制度の外側に劇場をこしらえることもあるが、それはやっぱり劇場なのだ。そうした自己認識こそ問い直していきたいところで、だから「脱劇場の担い手」としてはずいぶん役不足にも思える。アングラのテント劇団の活動を「劇場ではない場所」と取るか、「自分たちの劇場を設けた」と考えるかという問いにもつながるのかもしれない。

「脱劇場の系譜」ということばはさておき(上記のようにこのフレーズとどう関わるかは問題である)、劇場や演劇が自分にとってなんなのか、それは遠ざけたいものなのかもっと近寄りたいものなのか、清廉なものなのかスリリングなものなのか、そうしたことを特定していきたい。いまさらかよ、という感も否めない。いまだからこそ、なのかもしれない。
ここでも頭だけで考えず作品や企画に落とし込んでいくことがポイントに思われる。たぶんすぐに結論は出ないけれど、問いにぶち当たったのはよいことだ。

ちょっと疲れてしまった

やるとなったらできる限りのことをする自分の性分はいいところでもあり、厄介でもある。時間も力も有限だから、報酬(お金だけでなく)が追いつかないと勝手に落胆する。他者との協働のありかたとしてよろしくない。徐々に若くなくなってきたので、ひとりで頑張って乗り越えるのではなく、他者との協働が自然に生まれるような場をこしらえていくにはどうしたらいいんだろう? 

とあるパーティーで

とあるパーティーに参加して、久しぶりのひとや、名前は知っているけれどあんまり話したことない人などとたくさんお会いした。目鼻のきくひとだったらこういう場を上手に活用するんだろうけど、自分はパーティーが得意じゃない。場としては好きなんだけどパーティー特有の場面の対応が下手なのだ。せっかく久しぶりのひとと再開したり、面白いひとと出会ってもなんだかつまらないことやいらないことを話してしまう。目を合わせて話すのもなかなかできない。
もっとパーティーでの会話を上手になりたい。そのためにはもっと聞くことと、言語だけじゃなく体でその場にいることがポイントかもしれない、と思ったりする。

「目を見て話すのが苦手」といったことも含めて、自分のコミュニケーションの弱点や陥りやすい思考の穴など、専門家に相談しなきゃと思って半年近くが経ってしまった。2024年こそ。

怒ることが苦手

理不尽なこと、ありますよ。でも怒れない。納得のいかないことを言われても「いや、相手にも考えがあって言っているはずだし、私の理解が足りてなかったかも/間違っていたかも」などと考えて、怒ることができない。自分の落ち度に凹んだり、自分がクッションになることで場をおさめるほうに終始してしまったりする。気づくと言い返すタイミングを逃している。でも、理不尽なことを言われたらこちらもむかっとしていて、その怒りを内省で散らし続けるのは、理性的だけれど、はっきりと言いたいことをいうことで守れる自分もあるように思う。でもいつも逃しちゃう。怒りの練習が足らない。

最近考えていたことをばばばっと書いた。もっといろんなことがあったけれどもう眠くて思い出せない。誰でも見られる日記の内容がこういうことでいいのか疑問だが、こういうことはあとから思い出せないし、この日記を読んでいるひとは毒にも薬にもならないこういうウダウダへの許容値が大きいのだろう。
本当は公共空間やまちづくり、東京に家を壊すこと/つくること、民俗学と人類学(フィールドワーク)、演技論、その他あれこれ最近読んだものなどを振り返って深めたいけれど今日はもうだめだ。思考の場をどこに置くか悩ましかったりもする。miroにばーっと広げたりした時期もあったけど数日動かさずにいるとなんとなく離れてしまう。徐々に書き足すようなことではなく、時間を決めて一気に棚卸しするほうが賢明なのかもしれない。まずはテーマを8つとか10とか決めて、それについてひとりでポッドキャストをしてみるとか?どうしたら思考を深め、そのプロセス自体が有意義で、かつ成果にもつながるか。欲張りだけど。何においても手を動かすことと真摯な対話が大事なんだと思う。

以下、2/18のこと。

この日は午後から仕事。パートナーの家から、IKEAの袋を持って出勤した。22時まで働き、帰り道のどこかで夕食を食べたはずだけど忘れてしまった。

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