日記 2024.2.3

朝食で、パートナーがレンコンとじゃがいもの炒め物を作ってくれた。コーヒーを淹れて食べる。

10時からはオンラインで、近所の公園の拡張にあたり住民参加の意義を学ぶレクチャーがあったので参加する。大学院のときの師匠が講師だったということもある。家の近くと研究室が自然とつながっていくから世界は狭い。意識せずとも自身もつなぐ役割を果たしてしまう。

住民参加や地域社会のビジョンという話を聞いていくなかで違和感を覚えたことがあった、「対話」と「説得・理解」は紙一重のところってあるよなと。よりよい公園をつくっていこうとする人と騒音は困るという人がいたとき、注意をしないとこちらのビジョンを反対意見を持つひとに理解してもらうという構図に陥ってしまうこともありうる。反対しているひとの態度をどう「やわらげるか」「ご理解いただくか」。でも反対することもまた住人の権利で、それもまた住環境に対して声をあげているわけで、その声もまたひとつの自治だ。相手には物事がどう見えているのか。

そうした「インター・ビュー」を想像すること。と、一方で自分たちのビジョンをきちんと描くことのバランスもまた難しい。前者だけ=相手の話を聞くばかりだと何をしたいのかわからないし(聞く側が心のなかで抱いているイメージを透明にして接することもある種健全ではない。誘導と紙一重だ)や、後者だけだと当然自分のやりたいことのゴリ押しにもなりかねない。

「公共空間だから全員にとって重要な話題である」「居心地のいい公園はみんなにとってよい」という考えは一見正しいし間違いなく正論なんだけど、それを自明のこととして扱うことは普段仕事や家庭で忙しくしているひとからするとなんだか押し付けに思えてしまうということもある。内容のよしあし以前の、「これはみんなにとって大事なことだから当然あなたも関心があるはずだ、持つべきだ」という関心の温度差の話。実際温度差があるにも関わらずそれを無効化されると、生きていくお金をかせぐことや家のことで手一杯な日々を無視されているように思えることもあるし、ある意味では勝手な疎外感を覚える可能性もある。私が面倒臭い性格というだけかもしれないけれど。異なる時間を生きているもののあいだで歯車を合わせることはたぶん、けっこう大事で、合わせ方はいろいろあるはずだ。
そのためには問題解決型の思考だけでも、情緒的なコミュニケーションだけでもだめで、両者を併せ持ったような進め方が必要なんだと思う。
またワンマンではなく八方美人でもない、そうしたプロジェクト体制の追求が大事なのかもしれない。人間はややこしい。

誰もだれかのプロセスのなかのタスクとして処理されたいと思って生きていないし、敵味方のような構図をつくってはいけない。所与のコミュニケーションやつながりが希薄化しているいま、つながりを築くことは新しい「ウチとソト」を生み出す機会にもなってしまう。境界線が悪いのではなく、どういう境界線なのか、それは点線なのか実線なのか、境界線を動かすことができるひとは誰なのか、ということがポイントじゃないかと思う。

上記の懸念は「まちづくりがいらない」ということではなくて。まちという場所でいま「パブリック」に血を通わせていくことには難しさがあるけれど、そこに向き合うようなまちづくりこそいま必要に思うし、意義があると思う。

まちとかパブリックについてそんなようなことを思っている一方で、「みんな」を度外視した個人の執念みたいなものもまちには必要だと思ったりする。「みんなにとってよい」を生み出す技術だけをもってして生活はつくられないし、なんでもかんでも「みんな」を持ち出すのはなんとなく息苦しいし空虚だ。当たり前だけど目に見えるまちなみやくらしの背後にはドロドロしたもの、欲望や焦り、呪いも含めた自我のあれこれや土地、血縁、近隣に蓄積したもの、マクロで起きていることの恩恵、あおり・・・などがあって、わざわざ口に出していうことではないけれど、そうした総体としての生活があることも忘れないほうがいい。自分と同じように他者もいろいろ背負っている。くらしという現場に立っている。
もしかしたらそうした個人の困難やドロドロしたことへのゆるやかな治癒の場として、まちづくりがあるというほうが実体に即しているのかもしれないなとも思う。まちづくりに踏み出す前に、足元を照らすことも大事なことだ。

そんなようなことを思いながらレクチャーを聞いた後は出勤。夜まで働く。

明日が朝6時に家を出て沖縄行きなので、帰宅後は荷造りなどを済ませて早めに休んだ。

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